エンブレム騒動のデザイン的側面(1) インターナショナルスタイルとしてのフラットデザインとその限界

9月2日に開かれた「hireLink vol.4 簡単そうでむずかしい!「シンプルなデザイン」の裏側」というイベントでお話したことも含むのですが、オリンピックのエンブレム騒動とフラットデザインの関わりを書いてみます。長くなってしまったので、連載になります。

今回のエンブレム騒動とフラットデザインを関連づけている「オリンピックエンブレム騒動 「世界標準」デザインの敗北」
というブログの記事がありました。これはとても興味深く、また妥当な考え方だと思うのですが、コメント欄を見るとあまり理解されていないようでした。

現在、なにかをプロモーションしようとしたら、さまざまなメディアを組み合わせて行うことが当たり前になっています。なかでも欠かせないのがウェブです。ウェブをまったく使わないプロモーションというのは考えられません。多メディア展開で重要なのは、それらが一つの方向性をもっていること、統一感です。デザイン的にも、バラバラな印象にならないことが重要です。では、どういう方向に統一していくかとなったときに、ウェブの世界のデザインの傾向、流行は無視することができないということは、理解できると思います。もっとも身近なツールになってきているスマートフォンのなかの視覚的世界は、もっとも見慣れたデザインであり、デザイン的な流行もそこから生まれてくることが、これからますます多くなっていくでしょう。

今回のエンブレムが選ばれる過程でも、現在を象徴するデザインとしては、フラットデザイン的な方向性は無視できなかったであろうと思われます。どこまで意識しているかは、デザイナーによって異なるでしょうけれど、装飾過多なデザインや、グラデーションを使って立体感や輝きを強調したデザインを時代遅れのように感じる感性は、おそらく多くのデザイナーに共有されていたのではないでしょうか。

フラットデザインの流れのなかで、現実のものの形をメタファーとするスキューモーフィズム的な表現を避けるという傾向があります。これまでのユーザーインタフェースは、現実のモノに例えることで、わかりやすさに到達しようとしていました。何か捨てるならゴミ箱のアイコンというように。しかし、写真を撮るのも、メモを書くのもスマホという時代になると、カメラやメモ帳といったアイコンが、はたしてわかりやすいのかという問題になります。社会の変化によって、メタファーになりうるものは変わるのです。そうした流れから、アイコンなども抽象的な表現が多くなってきています。今回のエンブレムで使われたような、抽象的な図形によるデザイン構成は、フラットデザインを中心とする現在のデザインの流れのなかでは、当然考えられる方向性だといえます。これから2020年に向けてのデザインを考えたときに、こうした方向性をもったデザインを考えるのは、理にかなっているといえます。

また、このフラットデザインというデザインの傾向は、Apple、Google、Microsoftなど、世界規模の企業が、なんらかの形で(言葉としての表現方法は違うとしても)取り入れているものです。世界共通のデザインの流れといってよいでしょう。

同じようなデザインが世界的に流行したことがあります。一つは建築、外面をガラスで覆われた立方体のビルディング。西新宿の高層ビルなどでよく見かけます。こうしたビルは、世界のどこにいっても見ることができます。こうした建築の様式をインターナショナルスタイルといいます。もう一つは、文字を表現するタイポグラフィの世界で、スイスから生まれたあまり装飾がなく、シンプルで、相互の要素のバランスによって美しさを生み出すようなタイポグラフィが世界に広まって、インターナショナルスタイルと呼ばれるようになりました。

建築のインターナショナル・スタイル
タイポグラフィーのインターナショナル・スタイル

著書『フラットデザインの基本ルール』のなかで、フラットデザインは、タイポグラフィや建築におけるインターナショナルスタイルとならんで、UIにおけるインターナショナルスタイルなのではないかということを書きました。具象的な装飾には、地域性があります。たとえば服のデザインは、民族衣装を考えた時に、機能としての服というのは、それほど違いはありません。しかし、色や柄、アクセサリーなど、装飾的な部分では、民族ごとに大きな違いがあります。装飾性を排除したデザインは、民族的な差異の影響を受けにくく、世界中で同じように使われるようになります。世界で同じデザインの商品を販売するファストファッションには、こうしたものが多いように思います。世界を活動範囲とするグローバルな企業には適したデザインと言えるでしょう。

こうした、インターナショナル・スタイルとしてのフラットデザインが、オリンピックのためのデザインを考えるうえで、考慮されないはずがありません。先にあげたブログの「世界標準のデザイン」という表現には、このような背景があるのです。(詳しくは、『フラットデザインの基本ルール』をお読みください。[宣伝])そういった背景を考えない、フラットデザインを表層的な流行としか考えていない人たちが、ご紹介したブログ記事のコメント欄で馬鹿にしたり、汚い言葉で叩いているのと見ると、情けなくなります。逆に言えば、フラットデザインがどのように認識されているかを見ることができるとも言えます。

でも、今回の騒動で思ったのは、日本人のなかには、フラットデザイン的なものが好きではない、理解できないという人の割合がかなり高いのではないかということです。世界から見た日本人のイメージは、Zenのような、シンプルで余白があってと、知的に構成された、抑制された美を好むように思われているように思います。ところが、実際の今の日本人は、Lineのスタンプが好きだったり、シンプルなiPhoneに色々つけてデコるのが好きだったり、どちらかというと、モノの形大好き、テクスチャー大好きなのではないか。今回のエンブレムが、純粋にデザインとして嫌われたのは、そういう影響もあるのではないかと思うのです。(続く)

コンペの功罪

前記事「オリンピックのエンブレムはデザインワークのはじまり」は多くの方に読んでいただきました。ご意見としては、共感していただいた方が多く、うれしく思いました。こういう時期に、こういう内容を書くべきなのかは、とても迷うことでもありましたので。一方で、長野大会や招致活動のときは一般公募したじゃないかというご意見もあったので、少し補足しておこうかなと思ったのですが、書いているうちに長くなってしまって、長い蛇足は蛇であるかもわからないような気もして、控えていたのですね。そうしたら、意外なことに、あっさり決着がついてしまったようで、誰かの役に立つかもしれないので、とりあえず公開してみようかなと思います。

コンペのパターン

コンペを制限をもうけない一般公募にするか、今回のように狭い範囲にするか、結果を広い範囲の多数決にするか、内部の狭い範囲での選考委員で決めるかには、以下のパターンが考えられます。

1)一般公募で多数決で決める
2)狭い範囲の応募者によるコンペで多数決で決める
3)一般公募して内部で決める
4)狭い範囲の応募者によるコンペで内部で決める

1の「一般公募で多数決で決める」は、どんなものがでてくるか、選ばれるかわからないし、オリンピック全体のコンセプトに合致するかどうかもわからないので、この方法は選びにくいでしょう。2の「狭い範囲の応募者によるコンペで多数決で決める」も、商標のチェックなどを、すべて事前に行うのか、決定した作品に問題が生じたときにどうするかなどを考えると、選びにくいといえます。ただ、昨今のネット上での動きを見ていると、多数決で決めておけば無難、誰も責任をとらなくていいし、というような時代が来てしまう可能性も否定はできないように思えてきてしまいます。

3の「一般公募して内部で決める」の場合は、まず統括するアートディレクターを指名で決めて、そのもとでコンペを行うというケースが多いと思います。エンブレムのデザインはアイディア勝負な部分もあるので、応募点数が多いほうが、よいものになる可能性はあります。詳しくは知りませんが、招致活動や長野ではこの方式だったようですし。

デザイン的に見ると、アートディレクターがコンペ段階から、全体のコンセプトにあったものに近いものを選べるというメリットはあります。ただし、それはあくまで「近い」です。エンブレムの作者とアートディレクターが別であるという事実は残ります。また、こういう一般公募のコンペに、優秀なデザイナーがどれだけ応募するかという問題も残ります。プロの優秀なデザイナーは多忙な場合が多いですので、オリンピックのエンブレムとはいえ、一般公募の形のコンペのために多くの時間を費やすのは、なかなか大変です。招致の時も学生さんの作品でしたし。

長野オリンピックはよかったのにという意見も見られますが、長野オリンピックでも、公式パンフレットでは別のマークを使っていたりします。全体の統一感という意味では問題が生じていたといえるかもしれません。このあたりの経緯はわからないので、なんともいえませんが。

’98 長野冬季オリンピック 開・閉会式プログラムデザイン

また、エンブレムのデザインと全体のアートディレクションのどちらに仕事としての利益があるかといえば後者です。エンブレムの賞金は100万円程度ですが、全体のアートディレクションはそのレベルではないでしょう。一般公募をしているので、一見、民主的でオープンに見えますが、経済的においしい部分は、内部であらかじめ決っているわけです。利権を非難するなら、どちらを非難するべきでしょう。

前記事で述べたように、亀倉雄策氏の主張するように全体のまとまりを重視すると、エンブレムのデザインを決めて、その人に全体もしくは主要な部分のアートディレクションを依頼する形になります。このためには、4の「狭い範囲の応募者によるコンペで内部で決める」をとることになります。今回、閉鎖的などと指摘はされていて、経過の情報を出さなかったことなどは確かにまずいですが、仕組み的には、経済的においしい部分も含めて、できるだけ公平に行おうという姿勢があったといえます。逆に、エンブレムで問題が生じると、アートディレクションをまかせることもできないということになるわけですが。

また、半閉鎖的といえる条件を課すことで、コンペに参加すること自体の価値を高めています。一般公募だったら参加しないようなデザイナーも、このような形であれば、高いモチベーションで参加してくれると考えられます。これだけのデザイナーをタダで働かせるわけですから、経済的にはお得なやり方という考え方もあるかもしれません。

実は1964年は、亀倉雄策氏が制作体制の枠組みを提案して、そのなかでコンペを行なって、亀倉雄策氏自身の作品に決っているので、非常に豪腕なことをやっていることになります。今、このやり方を行ったら、利権だとかいう非難はでてくることになるでしょう。佐藤卓さんがいうように、デザインって、民主的なだけではうまくいかない、むしろマイナスになるということが多いと思います。結果がよければ評価されるわけですし。

「民主主義」が「デザイン」をダメにする

亀倉雄策氏を賞賛したかと思えば、民主的に、オープンにするべきといい、一般公募するべきといって、利権を非難する。背景を考えると、非難の方向がバラバラなように思います。単純に、デザインが気に入らない、パクリ騒動のあったやつが気に入らない、利権をもっているやつらが気に入らないというような感情的なものによるのでしょうけれど、もし、ロジカルに非難するなら、方向を整えて、丁寧な言葉で語らないと、前に進む議論にはなりません。

結果的にいえば、3の「一般公募して内部で決める」が一番無難だったのかもしれません。おいしい部分は利権で決められて、しかもその部分は目立たない。一番目立つエンブレムの部分で何かがあっても、外部の責任にできる。そういう意味では、大人の選択です。でもそうはしなかった。その理由は、前記事で述べたように、亀倉雄策氏の理想を引き継いで、もっと芯の通ったもの、大きな価値を求めた。それ自体は、悪いこととは思えないのです。

ところが、それを亀倉雄策氏のように豪腕で押し切るのではなく、中途半端に民主的に行おうとした。そのうえ、参加作品などの途中経過は公開しない。そういった中途半端な態度が、良くなかったのかもしれません。むしろ1964年のときのように、20人くらいの指名コンペ(当時はデザインの委員会があって、そのメンバーが参加したのだったと思う)にしたほうが、それぞれがもっと真剣に取り組むことができたかもしれません。

コンペの問題点

今回、100分の1の確率に、多忙なデザイナーがどれだけ真剣に取り組んだでしょうか。もちろん、口では真剣といいますけど、本当の仕事でのギリギリの緊張感があったでしょうか。コンペは結局、大半の応募者をタダ働きさせる方法でもあるわけで、それはメリットでもあり、デメリットにもなります。

ものづくりというのは、作る側はもちろんのこと、発注側も真剣勝負なわけです。何度もぶつかりあって、それを越えて進めていくことも少なくありません。ところが、コンペは応募要項を作ったら、作品の質は応募者に投げてしまっています。もちろん、コンペでいい作品がでてくることも多いのは事実ですが、それは応募者が無報酬になる可能性が高いにもかかわらず、いい仕事をしてくれたおかげです。コンペの問題点は、むかしから主張していて、2002年に出した『ウェブサイト制作のワークフローと基礎技術』にも書いていたりするのですけど、クラウドソーシングなど、時代はますますコンペが増える状況になっていますね。

また本来、ロゴを作るときには、さまざまなやりとりをして、何度も作りなおすわけですが、コンペにしてしまうと一発勝負になってしまいます。問題を解決していく、普段のデザイナーの能力は活かされず、一種の博打性を帯びてきてしまうのです。そうなったときに、「いわゆる一流デザイナー」の100案と、一般応募(プロも含む)の1万案で、最高作品のどちらのレベルが高いか、これは想定不能なむずかしい問題です。

今回、コンペの結果が決定したあとに修正したことについて、プロのくせに添削するようなことをしてとか、コンペなのに修正するのはおかしいというような非難がありますが、それは的外れだと思います。通常のシンボルマークの制作工程では、一度案を出してから、何度も修正することは当たり前のことです。コンペは、優秀な作品を選ぶ競技ではなく、目的に適した制作物を作るための手段なのですから。

ぼくの考えでいえば、少人数で構わないから、どういうデザインであるべきなのかを、きちんと議論して進めて欲しかった。選考が公平であるかなんてことはどうでもよくて、みんなで良い物を作ることが重要なので、その議論こそが、未来への遺産になるだろうと思うからです。参加者の範囲を狭めるのだったら、競技としてではなく、共同制作として行なってほしかったという気はするのですね。

大きな仕事でも、小さな仕事でも、どういう体制で制作するかというのは、いつも大問題です。それが仕上がりに与える影響はとても大きいのです。できるだけ、うまくいく確率が高いカタチを選ぼうとする。でも、それは確率でしかなく、やってみないとわからない。最後には、「えいっ」と選ぶしかない。何かを作るときは、みんなそういうものです。

今回のオリンピックのエンブレムに関して、上記の3を選ぶか、4を選ぶか、そのどちらもあり得ることだったと思います。そして、今回は4を選んだ。それ自体は確率的にそれほど低い選択をしているとは思えないです。うまくいけば、すごくうまくいった可能性はある。でも結果的には、はずしてしまった。そういうこともあるんです。ただ、そのなかには、コンペというもの自体の功罪もあるし、応募者のモチベーションや応募作品の質に問題があったのか、選び方に問題があったのかは、応募作品が公開されないと検証はできません。64年大会も公開されているわけですし、これは公開するべきでしょうね。

デザインって、スポーツと同じように、負けるときは負けるのです。いいものできないときは、できない。だからこそ、できるだけいいものができる確率をたかめていく必要があります。そのためには、デザインそのものを高めるとともに、制作や合意形成のプロセスの設計というものが重要になってきます。今回のことを一つの教訓として、そのあたりのことをきちんと考える必要があるように思います。

ちょっと補足と思ったら、ずいぶん長くなってしまいました。

オリンピックのエンブレムはデザインワークのはじまり

オリンピックのエンブレム問題への色々な人の反応を見ていて、仕事としてデザインに関わっていない一般の人に、どこが理解されていないのかというのが、だんだん見えてきたような気がするので、それをまとめてみたいと思います。

「亀倉雄策氏のデザインを踏襲する」ということの制作体制面での背景

1964年のエンブレムを手がけた亀倉雄策氏は、後にインタビューで次のように語っていたのだそうです

当初、オリンピック委員会から、大会のデザイン顧問になってくれと依頼され、この時、2つの提案をした。

1)デザインは多数決ではなくて、デザインをトータルで考えられる人物を選ぶべき、デザイン評論家、勝見勝を推薦する
2)俺に大会自体のシンボルマークとポスターをつくらせろ(キーになる部分は一人の人がデザインするべき)

これには少し疑問があって、1964年のエンブレムもコンペが開かれていて、結果もきちんと残っているのですが、多くの人が語っている「亀倉雄策氏のデザインを踏襲する」ということには、デザイン面と制作体制の面があるように思われ、制作体制面での背景として、この2点は前提としてあるように思います。もう少し整理すると以下の2点ということになります。

前提
1)多数決で決めるのではなく、優秀な一人の人間にまかせるべき
2)あらゆるデザインをトータルに考える(デザイン思想としても、制作体制としても)

つまり、多数決で、その場の雰囲気で決められるような大衆迎合ではなく、普遍的な価値を求めること。大会を構成するビジュアル要素のそれぞれが、「ちょっとカッコいいね」というようなものではなく、全体としてのデザインに通底する思想を感じさせるようなものを目指すこと。そして、それを実現させるためには、制作体制が重要であるということ(デザインする側の体制と判断する側の体制)、というのが「亀倉雄策氏のデザインを踏襲する」ということのなかに含まれているように思うのです。

実際、会場の各スポーツのアイコン化は東京大会ではじめての試みられたことで、その後の大会でも踏襲されているように、そのトータルに構築されたデザインは高く評価されることになりました。全体をトータルに考えるということが、デザインにとっては、非常に重要なことなのです。

エンブレムはデザインワークのはじまり

今回、エンブレムのコンペを行なったということは、それがオリンピック全体のデザイン基調を決めることになるわけです。となれば、全体のアートディレクションは、エンブレムの作家が中心となり、エンブレムの使用マニュアルはもちろんのこと、公式パンフレットやポスター、チケット、あるいは、会場のサイン計画といったものも、エンブレムのデザインをもとにして行われる予定だったはずです。そうでなければ、大会全体としてのビジュアル的な統一感を生み出すことができません。(現在、このような状況になってしまって、今後どうなるのかはわかりませんが)

エンブレムの著作権は組織委員会に譲渡されていますから、作者が200億円も儲かるなどというのは、まったくのデマですが、賞金は100万円だけというのも少しおかしくて、これらの業務の発注は、追って行われる予定だったと考えるのが普通だと思います。

エンブレムのコンペは、非常に限られた範囲で行われていましたが、これもここに原因があると考えられます。前提2)を考えれば、エンブレムだけができればよいのではなく、それを中心にトータルにデザインできることが重要なのです。クラウドソーシングでロゴを1点2万円とかで募集するのとは違うのです。確かに、ある程度見栄えのよいエンブレムだけを作るというのであれば、無制限に一般公募して、多数決で決めればよいかもしれません。エンブレムだけを見れば、仕上がりもそれなりに良く、最も文句が出にくいのかもしれません。

しかし、それで受かった人に、オリンピック全体のアートディレクションができるでしょうか。ある程度大きな仕事をまわした経験と、自分の思いを形にしてくれる制作組織をもっていなければこなすことができない、質と量の仕事になります。そして、そこにオリンピック全体を貫くようなデザイン的な思想を込めることができるでしょうか。それは、何万人応募したオーディションで受かった新人女優をヒロインにしてアイドル映画を撮るようなものです。それはそれなりの味わいがありますが、オリンピックのデザインで行なってよいことではないでしょう。このようなことを考慮すれば、どのあたりで線を引くかはともかくとして、無制限の一般公募や多数決ですむ問題ではないことは理解できるのではないでしょうか。

今回の件で、デザインを仕事としていない人が誤解していることの中心は、オリンピックのエンブレムって、マークだよね、クラウドソーシングで1点2万円とかで募集しているのと同じだよね、という認識しかないという点だと思います。だから、誰でもできるでしょということになるのでしょう。実際、ちょっときれいというだけの、安易なデザイン案がネット上に発表されていたりします。デザインに関わっている人のなかにも、一般公募にすればよいという意見があって驚くのですが、重要なのは、「エンブレムを作ることは、それで仕事が終わりではなくて、むしろはじまりなのだ」ということです。オリンピックのビジュアル表現をトータルに考えて、全体として質の高いものにするためには、これはゆずれないことのはずです。それは、1964年大会のときに、まずはじめに亀倉雄策氏が主張したことでも明らかです。

以上のように考えると、亀倉雄策氏のデザインを賞賛しながら、一般公募にするべきといっている意見が多いことには、とても驚かされます。それはデザインに対する思想がまったく異なります。手続きの問題ではなくて、思想の問題です。

多数決で決めるデザインがよい場合もあれば、悪い場合もあること。デザインにとって、制作体制はとても重要であり、制作体制の作り方はデザインに対する思想を表していることを亀倉雄策氏の言葉から学ぶべきだと思います。今回の制作体制の作り方は、結果的にうまくいかなかったといえるのでしょうけど、目指したものはなんとなく見えてきます。

業界の構造的問題

佐野氏をめぐる利権構造といった図が出回っていましたが、これもかなり疑問です。あのように図解されると、信じてしまう人が多いのでしょうけれど、今回のコンペは、参加者の条件がかなり厳しく絞られているので、もし仮に佐野氏以外の人が当選していても、だいたい同じような図は書くことができたと思われます。真相はわかりませんが、そういったつながりだけで、利権で決められたと断言するには、根拠が薄いといえるでしょう。

とはいえ、今回のコンペ参加者の界隈というのが、ごく狭い人脈で独占されていて、しかも長い間、あまり代わりのない人達で独占されているというのも、事実ではあるでしょう。長く続いた業界というのは、どこもそういったことになります。利権といえども縁なわけで、多かれ少なかれ、誰もが縁によって仕事をいただいているわけではあります。ですが、それが過度に偏ってしまうと、業界としても淀んできてしまいますし、制作物のクオリティにも影響してくることにもなってしまうでしょう。個別の利権を揶揄するのは意味がないと思いますが、全体としてのこうした硬直した構造が、今回の問題の遠因となったのは確かなことのように思います。1964年大会の頃は、業界としてもまだ若く、活力があったのでしょうね。

それとともに、エンブレム、ロゴなんて、誰でも簡単に、あるいはクラウドソーシングとかで安く作れると、一般に認識されていることに対して、デザイナーの側でもきちんと発言していく必要があると思います。もちろん、安価に作ったものでかまわない場面もあるのだけれど、すべてそれだけですむわけではないのだということを理解してもらう必要はあるでしょう。

ちょっと方向は良くないけれど、デザインに関して、一般の人も関心をもったという意味では、いい機会ではあるのだと思います。今回、デザインそのものの良し悪しには一切触れずに、なぜ一般公募や多数決ではないのかについて書きました。こうしたやり方は、理想を高くもっていたゆえの選択だったと思います。しかし、理想が高いほど、失敗するときには大きく失敗するというものでもあるのですよね。デザインって、むずかしいのです。デザインする側にとっては、制作体制よりももっと重要なのは、デザインそのものの問題だと思います。時間がとれれば、それも書いてみたいと思っているのですけど、どうなるかな。

新しい著書『ビジネス教養としてのデザイン』

『ビジネス教養としてのデザイン』

新しい著書、『ビジネス教養としてのデザイン』が発売になりました。この本では、デザインを職業とするのではないけれども、資料作成やデザイン発注などでデザインに関わる必要のある人に向けてのデザイン入門といった内容になります。昨今、ビジネスのなかでもデザインに関わる機会は増えていることでしょう。デザインの考え方は、ビジネス教養のひとつとして身につけておくべきことだと考えています。

デザイナー以外の方に向けてということで、どちらかというと、言葉で理解できたほうがよいのではないかと思い、できるだけ明快な言葉でデザインの基本的な考え方を表現したつもりです。また、プロのデザイナーと違って、他人の書いた文章をレイアウトするというのではなく、自分自身のなかに表現したい内容があるのだと思います。つまり、著者であり、編集者であり、デザイナーでもあるわけです。プロのデザイナーは情報そのものを書き換えるわけにはいかないですが、一人で行うのであれば、情報の編集からデザインまでをトータルに行うことができます。それをメリットと考えることができれば、よりよい表現が可能になります。

本書では、そのメリットを活かして「情報の構造=デザインの構造」になるようなデザインを目標にして、レイアウトや文字、色の表現によって、これを実現するための方法を解説しています。ぱらっと見ただけでは、よくある配置や文字の使い方、色の使い方の解説のように見えるかもしれませんが、中身を読んでいただくと、「情報とどう関連付けるか」という視点があることにお気づきいただけると思います。

初心者向け、あるいはビジネスユーザー向けのデザイン書は最近とても多く出版されていますが、そういったなかでも「情報の構造=デザインの構造」というのは本書の特徴であり、情報の発信者自身がデザインするときには、最も重要なことだと思っています。自分でデザインする人、あるいはデザインを発注する人にも役立つ内容になっていると思いますので、ご興味がありましたら、ぜひ御覧ください。

colissさんの記事で、本書の内容を非常によく紹介していただいています。この記事より、わかりやすいかもしれないですね。しかも、早いし。よろしければ、こちらもぜひ御覧ください。

「デザインの考え方がしっかり身につき、情報デザインのスキルがアップするオススメの本 -シンプルデザインの考え方」

AWA、Line Music、KKBOX、使い比べ

AWA、Apple Music、Line Musicと立て続けにストリーミングサービスの発表やサービス開始にニュース。ここで一度シェアを取られたら、挽回は難しいということかもしれない。時代が変わるときは、一気に変わるものだ。そこで、サービスを開始しているAWA、Line Music、KKBOXを使ってみた。数日使ってみた印象をまとめてみる。

画面は美しいAWA

AWAは、画面のデザインは一番美しいと思うのだけど、使いやすさはそこそこ。ハンバーガーメニューがグローバルなナビゲーションとなるが、曲の再生画面になると、メニューアイコンが「…」になって、メニューの中身が変わる。このなかに「アーティストページに移動」や「収録アルバムページに移動」がある。よく見ればアイコンが変わっているのだけど、ハンバーガーメニューは中身が見えないので、あまり中身が変わらないほうがいい。「アーティストページに移動」や「収録アルバムページに移動」は、普通に、アーティスト名やアルバム名をクリックでいいんじゃないか。

ライブラリとしては、海外アーティストでも、カタカナ表記のことがある。曲名までカタカナだとわけがわからない。とりあえずデータを集めましたという感じで、データベースが整理されていない。PCでの使用やダウンロードして再生は、今後追加されていくらしく、現状は対応していないようだ。

ライブラリが整理されているLine Music

Line Musicは、再生を始めるまでのタイムラグが一番長いように感じる。画面のデザインはすっきりしているのだけど、階層が深く、「お気に入りアルバム」のページというように階層を下がっていくとハンバーガーメニューが消える。階層を戻っていかないと、ハンバーガーメニューが使えない。しかも、ハンバーガーメニューのなかに検索はなく、トップページに戻らないと曲を検索できない。ちょっとしたことをしたいだけでも、タップする回数がとても多くなる。

ライブラリは、ジャズ系なども意外に多く、データベースとしても整理されている印象がある。PCでの使用は今後開始されるらしいが、ライン自体が複数端末での使用を前提としていないので、タブレットと両方で使いたいというような場合は、ちょっと不便かもしれない。キャッシュからの再生には対応しているけど、どの曲がキャッシュされているかはわからない。またキャッシュされていても、1曲ごとにネット接続は必要らしい。

キャッシュの扱いが便利なKKBOX

話題になっている上記2サービスに比べて、ほとんど話題になっていないKKBOX。画面のデザインは素朴。曲を聴いている画面の「…」メニューで表示するアイコンとか、何を表しているのかさっぱりわからない。でも、画面下部にナビゲーションがあるので、検索もお気に入りにも1タップで移動できる、わりと使いやすい。ライブラリは、ダブリがあったり、カラオケが結構あったりで、データベースとしてはまったく整理されていない印象だけど、数は多い。PC用のアプリでも利用でき、Mac版もある。これは使いやすい。仕事をしているときに使うという用途では、Macで使えるのはとてもうれしい。「一緒に聴く」という、見知らぬだれかを一緒に聴く機能というのは、発想としては面白いかも。

最大の魅力は、ダウンロードしたキャッシュから再生できること。どの曲をキャッシュするのかを自分で設定できるし、どの曲がキャッシュされているのかはアイコンでわかる。キャッシュされている曲の一覧もある。ネット接続を切った状態でもキャッシュされた曲は普通に聴ける。10数時間のうちに一度ログインすればいいらしい。音楽だけにデータ量を費やすわけにはいかないので、これは素晴らしい機能。

地味なKKBOXが意外にいい

KKBOXは試用期間が7日間なので、しばらくはAWAとLine Musicを使ってみようかと思うけれど、この3つのなかでどれに契約するかといったら、自分としてはKKBOXがわりといいような気がしている。キャッシュの扱いが素晴らしすぎる。モバイルのサービスとしては、必須事項だと思う。データがどこにあるのかがわかるというのは、Appleをはじめとして、最近はあまりやりたがらない。データの場所を隠して、意識しないようにする方向性がある。でも、現在はまだ、それですむほど自由な通信環境ではない。むしろ、ちゃんと自分で管理できるというのはいいことだと思うのだ。

とはいえ、近々Appleが参入してくるし、iTunesのライブラリは明らかにこれらの3サービスよりはいい。データベースとしても整理されている。データベースの整理は地味で、しかも整理するのは大変だけど、使いやすいサービスにするためには必要なことだと思う。結局Appleなのかな、とか思いつつ、しばらく動向に注目したい。

覚えることが少ないCMSがほしい

小規模なサイトで、ブログ的なサイトではないけど、サイト運営者が自分で更新したいからWordPressを使うことは少なくないと思うんですよね。

・10ページ以内とかの小規模サイト
・サイト運営者がいつでも更新できるようにしておきたい
・サイト運営者が自分でHTMLを修正するのはなし
・ftpを使うのは面倒

みたいな感じ。こういうのにWordPress使うって、面倒な気がします。CMSってそれぞれ癖があって、慣れればいいかもしれないけど、覚えること自体がめんどくさい。ブログ的なページ構成ではなくて、ページのなかに変更したい部分が複数あると、WordPressを使うのが便利というわけでもないし。最近、小規模なCMSも出てきているようですが、自分の知る限り、それほどさくっと簡単というのは見当たらなくて、プログラマなら数分でできそうなくらいプリミティブなCMSを作ってみました。Dropboxのなかにおいたテキストファイルを読み込んで、該当部分に表示するという、前世紀的な仕組み。

 [↓ここからダウンロード]
http://yoshihiko.com/20cCMS/index.php?id=p1

index.php?id=p1
にアクセスすると、DropBoxのPublicフォルダにおいたテキストファイル「p1.txt」を読み込みます。テキストファイルを増やせば、その時点でいくらでもページは増やせる。

DropBoxにおいたテキストファイルで、「$$$項目名」の改行に続けて書いた部分が、実際のページの<?=$cms[‘項目名’] ?>の部分に表示されるということだけ覚えておけば運用できます。テキストでもHTMLタグを使ってもOK。各ページに共通の項目は「common.txt」というテキストファイルに書き込んでおくことができます。いろんな機能のある入力画面より、テキストファイルに書いたほうが手軽な気がする。

 

設定するのも簡単で、データを記録するテキストファイルは、DropboxのPublicフォルダにおいておきます。MacやPCのファインダーで、DropboxのPublicフォルダのなかにテキストファイルを入れて、右クリックで「公開リンクをコピー」を選ぶと、ファイルのURLがわかります。ファイル名を除けば、それがPublicフォルダのURLです。「20cCMS.php」の指定部分に、フォルダのURLを記入しておきます。(ファイルを入れないと「公開リンクをコピー」ができません。)

普通にウェブページを作って拡張子を.phpにすると、これがテンプレートになります。同じフォルダに「20cCMS.php」を置き、ソースの冒頭で
<?php include(’20cCMS.php’); ?>
のようにリンクします。基本、それだけ。

2012年以降にDropboxに入会した人は、Publicフォルダがないようですが、その場合は、
https://www.dropbox.com/enable_public_folder
にアクセスすることで作れるようです。

マークダウンを使うこともできて、その場合は、
https://github.com/erusev/parsedown
から、
「Parsedown.php」をダウンロードして
「20cCMS.php」ファイルと同じフォルダに置き、
「20cCMS.php」内の指定部分3行の行頭の「//」を削除します。
項目名のあとに、[md]に続けてマークダウン記法で書くと、HTMLに展開されます。

原理は単純なので、書き換え可能な項目は、自由に増やすことができますし、データファイルから色を変えられるようにしたり、スタイルシートを書き換えることもできます。基本的なレイアウトだけ作っておいて、細かい部分はマークダウンにまかせるというのもありかもしれません。

サーバーサイドプログラムは素人なので、不備などあるかもしれませんが、よろしければお試しください。CMSを使用するサイトを制作しているときのデモ用などにも使えると思います。

新国立競技場のコンペから学ぶべきこと

新国立競技場のコンペは、設計期間も短かったようだし、ほとんどビジュアルだけで決めているようで、「設計」というレベルではなかったように感じてしまう。

参考:「新国立競技場は建てちゃダメです」戦後70年の日本が抱える”リフォーム”問題とは【東京2020】

本来、都市のモニュメントとなるべき建築というのは、歴史や環境、まわりの人の思いなどを調査したうえで、今後何10年あるいは100年といった単位での都市のあり方を考えて行われるはずで、ビジュアルとともに、環境面の影響や文化的な価値といった面も考慮する必要がある。そして、建築としての構造やサイズといった基本スペックと実現の可能性、そして予算内で実現できるかということは、どんなビジネスの提案においても、最も重要なポイントだ。にもかかわらず、今回は環境や文化的なことを考慮された形跡はあまりないどころか、建築として欠かすことのできない部分であるコストやサイズといったことすら、選考の根拠になっていなかったということは、驚愕してしまう。コストやサイズも当然、設計の一部であるはずだし、選考の根拠でもあるはずだ。今回のコンペは「設計」ではなくて、「夢のお絵かきコンテスト」でしかなかったといっていいんじゃないだろうか。

おそらく日本側で修正案を作ってそれで進めようとしているところを見ると、コンペで欲しかったのは、「著名な建築家の名前」と「コンペで選んだという事実」だけだったのだと思う。実施設計は日本側で行っているのだし。日本の設計会社が設計しましたというのでは箔がつかないので、コンペでイメージを提案してもらって、実際に形にする部分は設計会社のほうで進めるということのようにみえる。本来は、完成イメージとともに、都市のなかのでのあり方といった設計理念とその根拠、そして予算を含めて、総合的に判断すべきだったのだろう。そして、それができるだけの時間をかけるべきだった。

新国立競技場のコンペは、コンペというものの問題点を、非常によく見える形にしてくれている。本来必要だったのは、きちんと調査をして、問題点を明らかにし、ひとつずつ議論を重ねて問題点を解決しながら、最適な形に迫っていくという過程だったと思う。しかし、コンペにしてしまうと、そういった重要な過程が、コンペの参加者に委ねられてしまう。発注側と綿密なディスカッションを繰り返して進めるというわけにはいかなくなる。提案の段階で、外部から調べられることには限りがある。しかも、何分の1という確率でしか受注できないとなれば、提案の段階ではまだ身内として考えることはできないうえに、目立たなければコンペに勝てないので、相手のことを考えるよりもコンペで受かることを考えてしまいがちになる。そして、コンペで決まってしまったことによって、あやふやな根拠のうえになりたった形を崩すことができなくなってしまう。つまり、コンペにすることによって、使う人の立場になって、丁寧に調査と思考と議論を積み重ねていくとことができなくなってしまうのだ。

特に日本のように、合議制でだれも責任をとらない社会では、手続きを踏めばよい、複数のなかから選んだのだから最適だということにしてしまうことが多い。しかし、こういう場合というのは、誰一人、真剣にその問題に取り組んでいないし、誰一人、それを愛していない。作り手としても、空気を相手に仕事をしなければならないので、いいものなどできるはずはない。

実際のところ、こういうコンペは建築の世界でなくてもよくあることだ。単純な思いつきが作品の質を左右する分野であれば、コンペはとても有効な手段なのだけど、調査・思考・議論の積み重ねを必要とするものに関しては、よほど上手な運営方法と時間とコストをかけないと、うまくいかないものだということを、発注者が理解しておく必要がある。このような事例から、多くの人が学んでくれることを期待したい。

2014年の関心リスト

毎年恒例の今年の関心リスト。

まず、ライブ。Steve Gardnerさんを何度も見に行った。音楽としても魅力的だが、いつも大歓迎してくれて、心があたたまる。特にWashboad Chazとの共演の時が良かった。写真は外国人記者クラブでのライブ。
外国人記者クラブでのSteve Gardner

Sweet Jazz Trioは2回目。透明感のある音に、あらためて感動。
Sweet Jazz Trio
Sweet Jazz Trio

Yonrico Scott Bandの力強さに圧倒される。
Yonrico Scott Band

G.Love & Special Sauce、恵比寿リキッドルーム。なんだか、いつも雨な印象。やっぱり、オリジナル・メンバーがいいなあと感じた。
G.Love & Special Sauce

Rodney Branigan、ギター弾きながらのパーカッションなど、テクニックも面白いのだけど、アクロバティックな部分をのぞいても、音楽的にいい。あまりにもピュアな人柄に、心配になってしまう。
Rodney Branigan

Arvvasは、刺激を受けた。Steinar Raknesのベースとボーカルは、それだけで十分にいい。しかし、そこにSaraのヨイクがはいると、まったく別の世界に連れて行ってくれる。
Arvvas、Steinar Raknesのベース

そして、今年最後に見たグローブ座でのCaravanのライブが素晴らしかった。一人ゆえの自由な雰囲気がよかったし、声の調子や音の響きもよかった。
Caravan

今年一番よく聴いたのは、
Ben Harper『Both Sides of the Gun』アラビックな「Better Way」が特にお気に入りだった。

そのほかには、
Curly Giraffe『Thank You For Being A Friend』

Roland Kirk『Volunteered Slavery』

Joe Pass『Intercontinental 』はアナログで。

あと、Lou Reed。

新譜で、気になったもの

今年のジャケット・デザインではこれ。
Mark Nevin『Beautiful Guitars』

John Scofieldも新譜を出していました。
Medeski,Scofield,Maritn & Wood『Juice』

Gregory Porter『Liquid Spirit』は、ジャズ・ボーカルはあまり聴かないのに、これはいいと思った。

Karen Souza『Essentials 2』、こういうカバーアルバムは安っぽくなりがちだけど、ぎりぎりのところでバランスをとっている。前作『Essentials』もいい。

Takuya Kuroda『Rising Son』ロバート・グラスパー以降のジャズが面白い方向にいっている感じ。

類家心平『4 AM』

G.Love & Special Sauce『Sugar』ひさしぶりのオリジナル・メンバーでのG.Love & Special Sauce。

MONSTER大陸『進撃』、勢いを感じた。G.Love & Special Sauce「STEPPING STONES」のカバーも。

Drop’s『さらば青春』、年末に聴いて衝撃。70年代の香り。

The Temperance Movement『Midnight Black』

白山の映画館という喫茶店で、瀬川昌久さんのジャズ史講座。20年代のルイ・アームストロングとその影響など。

InterFM Jazz ConversationとBarakan Beatが終わってしまった。世界的な傾向としては、Jazzは面白くなってきていると思うのだけど。

Charli XCX『Boom Clap』は80年代の香りがして面白い。PVに東京バージョンもあるのか。

アメリカチャートを見ていると、Pharrell Williams『HAPPY』やTaylor Swift『Shake it off』も明るくていい曲だし、Jessie J, Ariana Grande and Nicki Minaj『Bang Bang』も良いバランスのごちゃまぜ感。売上は落ちているとはいえ、ポップなものばかりではなく、かなり挑戦的な音作りのものがチャートの上位に並んでくる状況はとても面白い。今の日本の状況を見ると、唖然としてしまう。

美術展・展示では、赤瀬川原平さんの2つ。
千葉市美術館の「赤瀬川原平の芸術原論展」

町田市民文学館の「尾辻克彦x赤瀬川原平 文学館と美術の多面体展」。

世田谷美術館の「松本瑠樹コレクション ユートピアを求めて ポスターに見るロシア・アヴァンギャルドとソヴィエト・モダニズム」

スパイラルのシチズンの展示。インスタレーション的なものとしてはトップレベルによかった。

アートブックフェアは、まだまだ紙の文化は元気だなと感じさせてくれた。

白金の小さなギャラリーで開かれたエミル・ルーダー展 ブログの記事はこちら

あと、楽器フェア。今年はあまり楽器に触れなかったのだけど、ここで色々な楽器に触れたのは楽しかった。隔年で開催だけど、毎年開催にしてほしいくらい。

ミニマリズムをめぐって(3) 物語の外側へ

19世紀までの芸術における形式論は、簡単に言ってしまえば、どうやって盛り上げるか。どうやって泣かすかということだ。徐々に感情を盛り上げて、最後に一番大きな盛り上がりを作り、終わる。そこには、「大きな物語」があった。

西洋において、「大きな物語」というのは、聖書の世界につながる。神を中心とした世界、中心というものが存在する世界ということになる。絵画における遠近法は、世界に中心を生じさせ、世界を構成する仕組みを定義してしていた。音楽の世界では、調性が帰るべき場所(解決)として存在し、やはり世界の中心として存在していた。そういったものが、遠近法を使わない絵画や抽象絵画、なかなか解決しないワーグナーの旋律や無調整音楽といった形で、中心をもたなくなってくる。19世紀末から20世紀のはじめに、それまで構成的な世界においてもっていた「中心」、あるいは帰るべき場所、展開と結末というものが、崩壊していく、あるいはなくてもいいじゃないかと思われてくる。それだけでは、時代と自らの持つ問題を表現できなくなってくる。中心を持たない構成という可能性を追求しはじめる。

本当の現実というのは、オープニングがあって、盛り上がりがあって、エンディングがあるというようなものではない。ただ出来事がつながっていくだけだ。世界に満ちている音にも、はじまりや終わりはないし、どんなに美しい景色にも、中心や額縁は存在しない。

現代の人の多くは、常に「生きるか死ぬか」といいながら生きているわけではない。それでも日々、多くのことに悩み、苦しみ、あるいは笑っている。さまざまな出来事があっても、そのなかで繰り返し、起き、食べ、眠る。同じことの繰り返しのように見えても、まったく同じではなく、繰り返しながらも、少しずつ変わりながら、ただ過ぎていく。

芸術は啓蒙でもあったので、わかりやすく、伝わりやすく編集する必要があった。物語という形で、ある意図によって切り取って、構造化する必要があった(神というもの自体、人が現実をどのように見るかということの物語化であったといっていいかもしれない)。現実の問題は、必ずしも物語の形に押し込めて捉えることはできないし、そうするべきでもない。もっと多様な捉え方があっていいはずなのだが、なにかを構成的に作り上げようとするときに、物語的な考え方しかできなくなってしまっていた。その外側にも表現の可能性はあるはずなのに。虚数のように。

大きな物語としての形式を作らないということは、それはそれで簡単ではない。音楽の世界では、調性を感じさせないために12の音を均等の割合で使うなどということにもなってくる。そのなかで生まれてきたのが、ドナルド・ジャッドの美術作品スティーブ・ライヒの音楽など、ミニマリズムと呼ばれる作品だ。これらが出てきたときには、単に強弱が少なく淡々としているというような意味ではなく、作品の構成として、部分と全体との関係を見直すものとして登場してきた(先日の「コルビュジエのスケッチから」につながってくる)。

ミニマリズムの作品は、起承転結的なわかりやすい構成・展開を否定していて、部分の繰り返しと、その組み合わせによって表情が変化していくことで作品が構成されることが多い。フラクタル図形のように、部分と全体が自己相似になっていると説明されることもあった。ただ単に抑制された表現をしているというだけでなく、そこに共通の考え方、構成方法があったからこそ、印象派や表現主義などと同じように、美術と音楽の世界で共通するような美意識として認識されることにもなったのだろう。演劇の世界の『ゴドーを待ちながら』もミニマリズム的な考え方の作品といっていいと思う。

(中心を持たない繰り返し的な構成も、後にアフリカ的なビートによる音楽のように神が宿ってくる、そこにこそ神的なものが生まれてくるということに気づく、というのも不思議なところだ。)

つまり、大きな物語を乗り越える一つの手法としてミニマリズムというものがあったという背景を考えたときに、これまで4回うねうねと考えてきたことを背景として、さて、今デザインの世界で言われている、あまり強い表現をしない、抑えた感じの、さっぱりとした表現のことを「ミニマル・デザイン」と呼ぶということについて、どう思うだろうか。ミニマル・アートやミニマル・ミュージックがもっていた問題意識との違いに愕然としてしまいはしないだろうか。デザインだけが、そんな安易なものであるはずがない。もちろん、言葉というものは、使われ方によって変わっていくものだ。多くの人が使えば、それが正解になっていく。でも、今、デザインの世界で使われている「ミニマル・デザイン」という表現には、どうしても、薄っぺらさを感じてしまう。それが、ぼくがこれまで「ミニマル・デザイン」について語れなかった理由なのだ。

コルビュジエのスケッチから
ミニマリズムをめぐって(1) 利休とポロック
ミニマリズムをめぐって(2) 達磨が作る静かな世界

ミニマリズムをめぐって(2) 達磨が作る静かな世界

ミニマルデザインを語るなかで、「ZEN」が持ちだされることは少なくないのだが、そうすると話はもっとややこしくなる。禅そのものについてはあまり詳しくなく、禅宗周りの文化のなかから生まれた美術的表現を見るのみなのだが、禅宗は「人間の意志によるコントロール」を重視しているように見える。少なくとも、悪人でも大丈夫だという親鸞などに比べればはるかに。雪舟が描いた国宝「恵可断臂図(えかだんぴず)」は、「人間の強い意志」に満ち溢れたエピソードを描いたものだ。中国禅宗の祖とされる達磨は、少林寺で壁に向かって9年間坐禅を続けたという話がある。いわゆる達磨さんはここから来ているわけだが、一人の僧侶が達磨への弟子入りを許されないので、自分の腕を切って決意を示して弟子入りを許され、恵可という名をもらったという。これだけ聞いただけでも、あるがままに自然に生きようという気持ちは感じられない。「人間の強い意志」を感じざるを得ない。

「恵可断臂図」WikiPedia パブリックドメインの画像
「恵可断臂図」(京都国立博物館の解説)

強い意志によって自分自身をコントロールし、生物としての欲望を最小限にするということは、逆に、真理をつかむとか、宗教的・哲学的な欲望を最大限にするということでもあり、形を変えているとはいえ、それは別の意味での欲望だということができるのではないか。

禅宗文化がある一定の美意識をもっていたのは、その作品群からも明らかであり、そこから生まれてきたものは、人工的な装飾が少なく、抑制された印象がある。そういう意味では現在ミニマルデザインと呼ばれるものとの共通点をある程度は感じることができる。装飾的な表現をしなくても美的な価値を生み出すためには、全体としてのコントロールが重要になる。コントロールが完璧でなければ、作品としての価値は見えてこない。しかし、コントロールすればするほど、「すべてをコントロールしている作り手」の作為が感じられてくる。作者は神であり、独裁者でなければならなくなる。表現を抑制しようとしてコントロールすることからでてくるのは、実は作り手の強烈な自我であるように思うのだ。それは、アップル社の製品にも感じるところだ。

そう考えると、抑制した表現するということは、実はあまり控えめなことではないのではないかと疑ってみることもできるのではないか。一見、控えめに見えても、「人間の意志によるコントロールしたいという欲求」が最大限になった状態といえるのだ。控えめであるということは、なんて独善的なんだろう。達磨が座禅をして、「壁となって観ること」を求めたのは、そういう部分のジレンマからだったのだろうか。

すべてをコントロールしようという意図を持つと、その表現が最小限であっても、あるいはだからこそ、作り手の作為が際立ってしまうという例として、佐藤可士和氏のセブン-イレブンのコーヒーメーカーが話題(【デザイナー完全敗北】セブンカフェのコーヒーメーカーが残念と話題)になったことがあげられるかもしれない。

現在のミニマルデザインと呼ばれるデザインでは、コンテンツを活かすためにインターフェースデザインの装飾性を最小限にするというような方向性で語られるが、禅的な美意識との類似性という面から考えた時に、装飾を抑えて、シンプルな美しさを作るということの難しさに、あらためて考えこんでしまう。単に美術的な表現の問題ではなく、人が何か行動を起こすことの意味そのものを見直す必要すらでてきてしまうのだ。

禅に興味をもつ西洋人は、単なる異国情緒である場合もあるけれど、「すべてをコントロールしたい欲求」が強いことが多いように感じている。スティーブ・ジョブズなど特に。そもそもZENが海外で人気なのは、異国的でありながらも、理解可能な範囲だからなのではないか。人間の意志によるコントロールを重視するということは、システム的な思考として、西洋人にも理解しやすいのではないかと思うのだ。

海外の人のなかには、ZEN=日本文化のように思われることもあるが、もともと禅はインド起源、中国経由であり、日本の文化はどちらかというと「仕方ないよね」「なるようになる」みたいな諦観をもったもののほうが多いよう思う。人間がすべてをコントロールしようという考え方は、日本ではむしろ珍しい。禅宗の庭のデザインを見ていると、すべてをコントロールして抽象的な美しさを求める方向性と、借景のように自分のコントロールの及ばない自然、偶然に投げる方向性とがぶつかりあい、まじりあってきたように思う(借景庭園)。千利休は臨済宗の居士だが、千利休あたりの美意識というのは、茶室のように完全にコントロールできる小さい空間を求める一方で、前回見たように、偶然性へ投げることも行っていた。時代的な背景もあり、その微妙なバランスの一つの到達点だったのかもしれない。

ミニマリズムをめぐって(1) 利休とポロック

『フラットデザインの基本ルール』のなかでも、ミニマルデザインについては、あまり詳しく触れなかった。デザインの分野で使われている「ミニマル」という言葉が、かなりあやふやに使われていて、それを詳しく説明していると、横道にそれすぎてしまうと思ったからだ。

最近、「Minimal design(ミニマル・デザイン)の考え方」というスライドで、千利休や禅などと対比させて解説されているのを見て、またそれが多くシェアされているのを見て、一般的にはこのような考え方が妥当と感じられるのだろうと思った。そういう意味では意義があると思う。でも、僕自身としては少々違和感を感じた。それは、『フラットデザインの基本ルール』でも書ききれなかった部分であり、かなりややこしく、でも、面白いところでもある。そろそろ、このパンドラの箱を開けてみる時なのかもしれないと思った。

千利休が求めた美は、華美ではなく、極限まで無駄を省いた美といわれることもあるようだが、それはどんなものだったのだろうか。ちょっといい加減なやり方ではあるけど、「千利休 茶碗」で検索してみると、利休が好んだと言われるような感じの茶碗の図版がでてくる。これらを見て、現代のいわゆるミニマムデザインの感じがするだろうか。極限まで無駄を省いた美という感じがするだろうか。むしろ、形が歪んでいたり、釉薬が流れていたりする。人の造作としての装飾は少ないかもしれない。しかし、自然の素材のもつ素材感がある。自然の偶然性が生み出す豊かな存在感がある。それは、実に豊かな表情をもっている。金属やガラスのようにつるんとしてはいないのだ。現代の視点から見てミニマリズム的ともいえる青磁のシンプルな器などもすでにあったのだから、利休が美意識として、現代のミニマリズム的な美を求めていたわけではないということはわかる。

「千利休 茶碗」で画像検索

「青磁」で画像検索

利休が求めた美を、現代の美術のなかに求めると、どちらかというと抽象表現主義に近いように感じる。例えば、ジャクソン・ポロックの絵は、アクション・ペインティングと言われるが、絵の具の落ちる場所や流れる道筋を100%コントロールすることなど不可能だ。釉薬が火の力によって溶け出して、思いもかけないような表情を作り出していくように、ポロックの絵の具の流れも半ば偶然性によって生み出される。ここには、いわゆるミニマルデザインというものに感じられる、抑制され、コントロールされた表現という印象はない。感情を直接ぶつけたような、いわゆるアクションの結果としての表現に加えて、自然の力、偶然性の力によって、人間の手による創作の限界を超えようという意図を感じてしまうのだ。

ポロックのアクション・ペインティング

「Jackson Pollock」で画像検索

では、人間の意志によるコントロールを否定しているのかというと、そうではないように思う。ポロックの絵を見ても、明らかに良い作品とそうでない作品がある。そこには、明らかに、人の意識による選択眼というものがある。ただ、すべてをコントロールして、再生産可能な装飾品を作るのではなく、唯一の瞬間によって生まれた一回性を貴重なものと考えたという意味でも、利休の一期一会と近い感性を感じてしまう。

一期一会

現代美術のなかでの位置づけとしては、感情的な表現に感じられる抽象表現主義は、理性的な表現のミニマリズムとは対局のように捉えられることが多いのではないだろうか。利休的な表現というのは、華美ではなく、抑制されている面もあるけれど、細部においては表現を抑えているわけではなく、現代のミニマリズムというよりは、むしろ抽象表現主義のほうに親和性を感じてしまうのだ。

コルビュジエのスケッチから

少し前に、放送大学の特別講義として放送されていた建築の講義を見た。そこで印象的だったのは、講師の方が若い頃に、ル・コルビュジエの事務所を訪れたときの話だった。事務所にはコルビュジエのスケッチがあり、これはどこの建築なのかと尋ねると、特に決まっているわけではないということだったのだ。そこで講師が感じたのが、立地や使う人たちの事情などに先立って、建築の全体的な構想があるということ。建築史のなかでの位置づけとして、現代のあるべき建築の理想があり、そこから現実の制約に折り合いをつけていくという方向で作られていくということだった。

コルビュジエの設計したパリの救世軍宿泊施設
コルビュジエの設計したパリの救世軍宿泊施設

一方で、日本の大工さんの作る建築は、間取り図があり、施主とどんな風に住みたいのかを話せば、全体像は自然とできてくる。部分から考え始めて、全体が生まれてくるという考え方だ。コルビュジエの建築は、コルビュジエ自身の理想を具現化したものであり、建築の歴史のなかで重要な意味をもつ。でも、それが住む人にとって快適かどうかは、まだ別の話だ。日本の大工さんの建築は、もちろん、伝統と経験によって育てられてきたスタイルがあって実現しているものであり、全体を考えていないわけではなく、住む人にとっては快適かもしれない。全体から部分、部分から全体という2つの方向性は、どちらが優れているというものではなく、両方あっていいものだということだった。(ずいぶん前のことなので、ぼくの記憶が補ってしまっている部分もあるかもしれない。)

全体から部分、部分から全体というのは、構成的に作り上げられるものすべてにあてはまることだ。そして、その両者は、どちらかだけで成り立つものではなく、両方の視点が必要であることは確かだと思う。(コルビュジエにとっては、モデュロールのような考え方がその間を埋めるものとして存在していたのかもしれない。)しかし、どちらかというと、西洋的な価値観としては、全体的な構成を優先する発想が強かったように思う。人間の思考によって、矛盾なく構成させることが、よい作品の条件のように思われることが多かったのではないか。それは西洋の都市計画にもあらわれている。

デザインに関していえば、そもそもデザインという事自体が、西洋的な全体的な構成を優先する発想に大きく影響を受けているように思う。全体としての統一感、一貫性を重視する傾向がある。デザイナーや、デザインに関心をもっている人は、どこかにこうした指向性をもっているのではないか。ところが、今、日本のデザインのまわりで言われることは、どちらかというと、部分の重視、使いやすければいい、コストがかからなければいい、という主張が多いように思う。そうすると、どうしても考え方の差を埋めにくくなってしまう。

デザイナーの思考法のなかにも、部分から全体という思考の流れが必要になってくるし、最近、経営にデザイン思考をと言われているように、デザインに関わるビジネス側の人にも、全体から部分という思考が必要になってくるのではないかと思っている。両者が歩み寄り、両方向の考え方のバランスをとっていくことで、使いやすく、また現代的な価値のあるものを生み出すことが可能になると思うのだ。(この話、続きがある予定)

The Third Decade of Web

10月に、フリーランスになって20年を迎えた。何かブログの記事を書きたいと思ってはいたものの、うまく気持ちをまとめられずにいた。先日、WebSig10周年のパーティに参加させていただいて、10年という単位で振り返ってみることで、少し整理された感じがしたので、それを記してみようと思う。

世界最初のWebサイトは1991年というけれど、個人がインターネットにつなげるようになってきたということでいえば、1994年がそのスタートの年といってもよいと思う(インターネット歴史年表)。自分自身も、自宅で初めてインターネットにつないだのは1994年だった。

1994年からの20年という期間を俯瞰してみると、はじめの10年と次の10年は2つの段階に大きく分けることができるように思う。もちろん、すべてのことをくっきり分けることができるわけではないのだけど。

The Third Decade of Web from Yoshihiko Sato
 

はじめの10年というのは、次々に新しいことが生まれてくる日々だった(図の上方向への拡大)。表現力が拡大し、いろんなアイディアが実現されていった。Flashの登場をはじめとして、それまでにはできなかった表現ができるようになっていく、ワクワク感のある時期だった。Windows95以降、パソコンの性能も飛躍的に進歩していったし、OSやブラウザのバージョンアップも速かった。それが必要なくらい、コンピュータやインターネットをとりまく状況の変化が激しかったのだ。

現在、ウェブブラウザ上でできることの多くが、この時期にすでにあらわれている。表現力という意味では、むしろ今のほうが、後退している部分もあるかもしれない。実現できないというわけではなく、表現として求められないという意味で。

2004年からの10年は、Windows XPを使い続けるユーザーが多かったことでもわかるように、Webを使ってできることの範囲は、それほど大きく変わってはいない。この10年は、ユーザー層が拡大する時期だったといえると思う(図の横方向への拡大)。2000年を超えた段階で、すでに多くのユーザーがいたのは確かだけれど、あくまで自宅でパソコンを使っている層、あるいはビジネスユーザーだった。スマートフォンの普及は、そうした層の幅を超えているし、時間的、場所的な制約もなくなってしまった。

人が多くなり、滞在時間も長くなることで、ビジネスが大きなレベルで成り立つようになり、SNSのようなコミュニケーションが盛んになった。この10年では、特別なサイトを除けば、斬新な尖った技術や表現よりも、コミュニケーションが主役になった。それは、健全なことだと思う。多くの人にとって、だれかが細々と作ったものよりも、人間そのもののほうが魅力的なコンテンツなんだろう。(手間暇かけて、苦労して作ったコンテンツよりも、誰かの失言を扱った記事のほうが人気があったりもする。失言には、その人そのものが最もよく表れているといえるかもしれない。)

さて、もう終盤にさしかかっているけれど、今年は2014年。英語には10年を意味する「Decade」という言葉があるが、Webの世界も「The Third Decade」へ入ってきている。「The First Decade」の表現力の拡大・多様化、「The Second Decade」のユーザー層の拡大・多様化につづいて、この図の奥行き方向へ、3つめの次元への拡大・多様化の時代がくるだろう。ブラウザの範囲を超えて、関わり方の多様化へ。センサーの塊でもあるスマートフォンが、すでに多くの人の手のなかにあるのだから。

ぼく自身も21年目。「The Third Decade of Web」へ、進んでいこう。

エミール・ルーダーの言葉

プリントギャラリー

プリントギャラリーで開かれていた「エミール・ルーダー展」で見た
素敵な文章。

 

アイゲマイネゲヴェルシューレ・バーゼルにおける

タイポグラフィ専科の教育目標

わたしたちの時代の表現としてのタイポグラフィの追求。
タイポグラフィにおける形式主義や過去の成果の単なる模倣の排除。
あらゆるタイポグラフィック・デザインの基礎としての
素材の本質と誠実さに対する感性。
カラーとフォルムの徹底的体験への指導。
わたしたちの時代のあらゆる事象、
すなわちグラフィック、絵画、音楽、文学、思考法と
密接に絡み合うタイポグラフィ。

1942年 エミール・ルーダー

 

「形式主義や過去の成果の単なる模倣の排除」
「素材の本質と誠実さに対する感性」
というあたりにぐっとくる。
誰かが作った「ルール」を真似ればいいわけじゃない。

そして、
「わたしたちの時代のあらゆる事象、
 すなわちグラフィック、絵画、音楽、文学、思考法と
 密接に絡み合うタイポグラフィ。」

情報のデザインは、
世の中のあらゆることと切り離すことはできないし、
そうしたものとの関わりのなかでこそ
価値が生まれると思う。
ジャンルを切り分けて満足している場合じゃない。

いい展示でした。

デザインの歴史と分析的な見方【後編】

2月24日に引き続いて、3月5日に、ウェブ上の学校「スクー」にて「デザインの歴史と分析的な見方【後編】」の授業を行ないました。そこで紹介した資料および関連する資料をあげておきます。

会員登録+チケットが必要ですが、授業の様子は下記のURLで録画を見ることができます。会員はチケットは毎月1枚もらえます。
http://schoo.jp/class/430/
 

ブルーノート アルバム・カヴァー・アート
『ブルーノート アルバム・カヴァー・アート』

 

Alexey Brodovitch
『Alexey Brodovitch』

Alexey Brodovitchの作品集
 

Alexey Brodovitch
『Alexey Brodovitch』

小型のAlexey Brodovitchの作品集
 

Harper's BAZAAR (ハーパーズ バザー) 2013年 創刊号
『Harper’s BAZAAR (ハーパーズ バザー) 2013年 創刊号』

付録が『Harper’s BAZAAR』の表紙のコレクション
 

ハーブ・ルバリンが関わっていた『U&lc』誌のダウンロードサイト
 

Emigre No 70
『Emigre No 70: The Look Back Celebrating 25 Years in Graphic Design Selections from Emigre Magazine』

『Emigre』の総集編的な号。ただし、Amazonの今の価格は高すぎ。探せば1/10くらいでも見かけたことがあります。どこだったか……。
 

デザインを知る世界の名著
『デザインを知る世界の名著』

 

グラフィック・デザイン究極のリファレンス
『グラフィック・デザイン究極のリファレンス』

 

後編の裏テーマは、髪の毛を尖らせないことと、カメラで遊ぶことでした。カメラマンさんが、前編は2人でしたが、後編は1人でカメラ3台という状況で、カメラマンさんが走り回っていました(意図的に走り回らせた面もちょっとあるかも)。固定カメラがあったので、カメラの前で物のほうを動かしたり、画面いっぱいに文字を表示させたり、ジャケットなどをバラバラと配置したりと、ちょっとない図柄になった場面はあったかなと思っています。こういう時も、裏テーマを持っていると楽しむことができますね。

とはいえ、相変わらず、つたない部分も多かったので、学生代表(司会進行)の山部さんに、いろいろサポートしていただきました。ありがとうございました。

いい忘れたこと、時間がなくて紹介できなかったことが、かなりありました。いろいろ資料を出してきたので、せっかくなので、Ustとかで、補講というか、講義じゃなくて、もっとだらっとした補話といったものができないかなと思っています。

 
 
 

デザインの歴史と分析的な見方【前編】

2月24日に、ウェブ上の学校「スクー」で授業を行ないました。
そこで紹介した資料および関連する資料をあげておきます。

会員登録が必要ですが、授業の様子は下記のURLで録画を見ることができます。
http://schoo.jp/class/429/
 
また、3月5日には後編の生放送があります。
http://schoo.jp/class/430
 

Merz to Emigre and Beyond
『Merz to Emigre and Beyond: Avant-Garde Magazine Design of the Twentieth Century』

 

銀座グラフィックギャラリー
『ロトチェンコ -彗星のごとく、ロシア・アヴァンギャルドの寵児-』図録
 

Rodchenko」で検索してみる
 

バウハウス 25周年
『バウハウス 25周年』

 

Swiss Graphic Design
『Swiss Graphic Design: The Origins and Growth of an International Style, 1920-1965』

 

Grid Systems in Graphic Design
『Grid Systems in Graphic Design』

 

Josef Muller-Brockmann
『Josef Muller-Brockmann: Pioneer of Swiss Graphic Design』

 

brockmann」で検索してみる
 

『Modern Swiss Architecture』Max Bill
 

『Ein Tag mit Ronchamp』Emil Ruder
 

Typographie
『Typographie: A Manual of Design』Emil Ruder

 

構成的ポスターの研究
『構成的ポスターの研究―バウハウスからスイス派の巨匠へ』

 

デザインを知る世界の名著
『デザインを知る世界の名著』

 

グラフィック・デザイン究極のリファレンス
『グラフィック・デザイン究極のリファレンス』

 
 
 

2013年の関心リスト

毎年恒例の今年の関心リスト。ライブでは、5月25日にミッドタウンの広場で行なわれたCaravan&ユザーンのフリーライブ。アウトドア用品のイベントだったので、ランタンの灯りにともされて、とても素敵な雰囲気だった。音楽そのものもよかったのに加えて、いろんな人がふらっと集まって音楽を聞くというフリーライブならではの感じが気持ちよく感じた。

Caravan&ユザーンのフリーライブ

石橋楽器渋谷店で、至近距離で見たキャンディ・ダルファーは、貴重な体験だった。あとは、7月31日のビルボードライブのダニエル・ラノアとか。

ダニエル・ラノアライブ

今年はInterFMの「Barakan Morning」を聴くようになったことが大きい。「Barakan Beat」が朝の「Barakan Morning」になって聴けなくなるかと思ったら、結局、朝起きれるようになって、ほとんど聴いた。

アルバムジャケットの一番は文句なしにTedeschi Trucks Band『Made Up Mind』。音も悪くないけど、前作のほうが好み。

Tedeschi Trucks Band『Made Up Mind』
Tedeschi Trucks Band『Made Up Mind』

John Scofield『Uberjam Deux』はジャムバンドの方向ということで期待したんだけど、期待したほどではなかったというか。『A GO GO』が一番好き。でも、旧作を含めて、今年一番聴いたのは、Tedeschi Trucks BandとJohn Scofield。

John Scofield『Uberjam Deux』
John Scofield『Uberjam Deux』

このあたりの方向として、ちょっと面白かったのは、The New Mastersounds
『Out on the Faultline』とKerbside Collection『mind the curb』かな。

The New Mastersounds『Out on the Faultline』
The New Mastersounds『Out on the Faultline』

Kerbside Collection『mind the curb』
Kerbside Collection『mind the curb』

ボーカルものとしては、やはりNataly Dawnははずせない。この空気感が素晴らしい。映像も含めて、本当に好き。

Nataly Dawn covers Coldplay with Ryan Lerman!!!

この流れでは、Predawnの自然な感じにひかれた。あとは、Gabriel Aplin。

Predawn『A Golden Wheel』
Predawn『A Golden Wheel』

Predawn『Keep Silence』-YouTube

Gabriel Aplin『Panic Cord』
Gabriel Aplin『English Rain』

Gabriel Aplin『Panic Cord』-YouTube

日本の曲では、ドラマ『泣くな、はらちゃん』の「私の世界」が、歌詞が素晴らしすぎた。日本の曲ではナンバー1。

『泣くな、はらちゃん』
『泣くな、はらちゃん』

『私の世界』-YouTube

今年の一つの流れとしては、アコースティック系の盛り上がりだと思う。Mumford & SonsとThe Lumineersの音は気持ちよかった。Billie Joe Armstrong & Norah Jonesもこの流れに入れていいのかな。あと編成の面白いLake Street Dive。

Mumford & Sons『Babel』
Mumford & Sons『Babel』

Mumford & Sons『I Will Wait』-YouTube

The Lumineers『Lumineers』
The Lumineers『Lumineers』

The Lumineers『Ho Hey』-YouTube

Billie Joe Armstrong & Norah Jones 『foreverly』
Billie Joe Armstrong & Norah Jones 『foreverly』

Billie Joe Armstrong & Norah Jones 『Long Time Gone』-YouTube

Lake Street Dive『Clear A Space』-YouTube

ヒットチャート系では、Robin Thicke ft. T.I., Pharrell『Blurred Lines』は、なんていうこともないのに、一瞬聴いただけで、これは売れるよなあと思わされてしまう。

Robin Thicke『Blurred Lines』
Robin Thicke『Blurred Lines』

Robin Thicke ft. T.I., Pharrell『Blurred Lines』-YouTube

Macklemore & Ryan Lewis『Thrift Shop』は、サンプリングの使い方が絶妙に悪趣味で、センスいい。

Macklemore & Ryan Lewis『Heist』
Macklemore & Ryan Lewis『Heist』

Macklemore & Ryan Lewis『Thrift Shop』-YouTube

Robert Glasper Experimentは、ジャズの進んでいく方向性を感じた。

Robert Glasper Experiment『Black Radio 2』
Robert Glasper Experiment『Black Radio 2』

Lordeは、音楽よりも顔にインパクトを感じてしまう。久しぶりに現れた、狂気を感じる。レディ・ガガみたいな偽物ではなく。やばい感じがする。音楽はそれほど好きではないけど。

Lorde『Pure Heroine』
Lorde『Pure Heroine』

Lorde『Royals』-YouTube

大学の帰りに八王子のタワーレコードによく立ち寄るようになって、視聴したりもしていたけど、Booker TやBuddy Guy、Rod Stewartの新作もよかった。お達者な感じ。特にRod Stewart、意外なほどいい。ポールはまあまあかな。Vampire Weekend『Modern Vampires of the City』は捨て曲なし、アルバム全体として驚くほどの出来の良さを感じた。

Booker T『Sound the Alarm』
Booker T『Sound the Alarm』

Buddy Guy『Rhythm & Blues』
Buddy Guy『Rhythm & Blues』

Rod Stewart『Time』
Rod Stewart『Time』

Vampire Weekend『Modern Vampires of the City』
Vampire Weekend『Modern Vampires of the City』

■ドラマ

『あまちゃん』と『泣くな、はらちゃん』はよかった。一番多く聴いた曲はあまちゃんのテーマかも。かつてのクドカン好きとしては、最近のクドカンにはあまり魅力を感じていなかったのだけど、突然、奇跡的な傑作が生まれたような気がする。

「あまちゃん」
『あまちゃん』

『泣くな、はらちゃん』
『泣くな、はらちゃん』

■美術展

gggで開かれた「Jan Tschichold ヤン・チヒョルト展」
ニュー・タイポグラフィー以前の作品を見ることができたのがよかった。

TOTOギャラリー間
「中村好文展 小屋においでよ!」

国立近代美術館の庭「夏の家」

高校生の頃、毎年、自分のベスト10をつけていたのだけど、ブログでは2004年から(2008年を除く)、順位はつけていないけれど、関心をもった曲などをリストアップしていた。

2004年
2005年
2006年
2007年
2009年
2010年
2011年
2012年

10年後に、またお会いしましょう

11月に『フラットデザインの基本ルール Webクリエイティブ&アプリの新しい考え方。』が出版された。ウェブやアプリのデザインの本としては、かなり挑戦的な内容にしたつもりなのだが、おおむね良い評価をいただくことができて、ほっとしている。お読みいただいた方には、大変感謝しています。年末でもあるので、執筆の際に考えたことなどを振り返ってみたい。

フラットデザインの書籍を書かないかと聞かれたのは、お盆前くらいのことだったと思う。フラットデザインの流行というのは、インターフェースデザインの流れのなかでは、とても重要な出来事だと思っていたし、それをきちんと見ることで、インターフェースデザインというものを、もう一度きちんと考えることができると思い、この仕事を受けることにした。書籍の内容から、スケジュールが厳しいことはわかっていたので、かなり迷いはしたのだが。

しかし、フラットデザインについては、ネット上でも数多く語られているので、書籍として出す必要性を感じる内容であることが重要だ。現時点でのフラットデザインについて説明し、制作方法のTIPSをまとめただけの本にはしたくなかった。そうした内容なら、ネットのほうが情報も多く、タイムリーなものが手に入る。執筆開始前の時点で、すでに十分な量の情報はあるといってよかった。そこで、ネットであまり語られていない、背景の部分を描きたいと思ったのだ。

流れのなかにいると、流れの行く先を予想するのはむずかしい。しかし、視点を少し高くすると、流れの方向性は多少は予想がつく。それは、雨の日の水の流れを見てもわかることだろう。いま生きていくなかで、少しでも視点を高くするには、その流れがこれまで、どういうふうに流れてきたのかを知ったり、感覚として感じたりすることだと思う。そのための、手伝いになるような本にしたいと思った。

本には2つの種類があると思う。情報としてすぐに役に立つ本と、考えるための本。この本は、情報の部分もないわけではないのだけれど、どちらかというと、考えるための本だ。この本を読んでもらう時間のなかで、何を考えてもらえるかという部分を重視している。考えることに刺激を与えるような言葉や情報を、できるだけいいバランスで配置したいと考えた。もちろん、どういうふうに読んでもらうかをコントロールはできないのだけど、ブログを1ページ見るような細切れの時間ではなく(それももちろん価値はある)、ひとまとまりの時間、ひとまとまりの思考というものを生み出す空間を作りたい、その空間/体験を作ることにこそ、「本としての価値」があるだろうと思ったのだ。

だから、フラットデザインはいいとか、悪いとか、こうしなさいというようなことはあまり書いていない。アマゾンにも載せた「はじめに」でも、「答えはない」と書いている。情報としての「答え」を求めている人には、満足いただけないかもしれないので、申し訳ない。

ネット上で書評などを見ていて、よくここまで読み取ってくれていると驚かされることがある。ここに書いた意図の部分まで、実に明確に読み取られているのだ。ただ、フラットデザインの流行が終わったら役に立たないという意見がいくつかあったのは、少し残念だった。この本は、どちらかといえば、フラットデザインの流行が終わったあとに、次を考えるためのベースとして、その価値が生かせる本なのではないかと自分では思っているし、そういう風に書いたつもりだ。この時代に、このような流行のテーマの内容で、「書籍として」出すことの価値をどうつくるかという意味での、自分なりの回答のひとつをそこに置いたつもり。本書をお読みいただいた方で、もし10年後もお手元にあったなら、1章だけでもよいので読み返してみていただけたら幸せだ。

10年後に、またお会いしましょう。

WebSig1日学校2013でワークショップをおこないました

10月5日、WebSig1日学校にて、ワークショップを行ないました。WebSig1日学校は2010年、11年の講義に引き続いて3回目の参加になります。今回は、諸般の事情から、ワークショップでの参加ということになり、スパゲティ・キャンティレバーというワークショップを行なうことにしました。

キャンティレバーは建築の用語で、片側だけを固定して、反対側は空中に浮いている「梁」などの構造を意味します。スパゲティ・キャンティレバーは、食材であるスパゲティの乾麺を使って、ペアでキャンティレバーを作り、その長さを競います。

2013.10.5 WebSig1日学校ワークショップ スパゲティ・キャンティレバー

今回のワークショップは、メインの講義の裏番組みたいな感じでしたので、正直なところ、どうなるのか心配だったのですが、一番に参加してくれた学生さんをはじめとして、みなさん、本当に楽しんで参加してくれました。盛り上がりすぎて、隣の教室にいた人が驚くくらいだったとのこと。

楽しむということは、本当に大切なことです。無理に楽しませるなんてことはできません。本人のなかに、楽しむことができる感性がなければ、楽しむことはできないのです。おそらく何をするのかよくわからなかったのに、何かを感じて訪れてくれた人の感性、自分が楽しめるものを見つける嗅覚、シンプルなことに楽しみを見いだせる柔軟な考え方、とても素晴らしいと思います。

こういうワークショップで何を感じ取るかは人によってさまざまであり、違いがあるということに価値があると思います。まとめ的なことを言ってはいけないと思うので、ここから先は読まないでくださいね。

 

 

 

 

 

本当に、読まないでくださいね。

 

 

 

 

 

読まないでくださいといっているのに……。

このような課題に取り組むときには、こうしたらうまくいくんじゃないかと仮説を立てるわけです。本人は「仮説」とまでは思っていなくても、やはりプランはもってはいるわけです。少しずつコツコツ積み重ねていったり、一気に大記録を狙ったり。かなり性格が表れる部分でもあります。(見ていると、ここがとても面白い。)この段階では人それぞれであり、何が正しいということはありません。

しかし、どこかでそれを検証しつつ進めなければなりません。そして、多くの場合、なんらかの問題を生じます。どの段階で検証して、問題を解決していくか。必要であれば方向性自体を修正していくか。さらに、時間制限のなかで、その範囲で可能なことという着地点を決めて、危機管理をおこなっていくことを判断しなければならないのです。

これって、ほとんどのプロジェクト・マネジメントそのものですよね。無意識のうちに、このような判断を、しかも楽しみながら行なっているのです。こういう考え方を実際の仕事にも活かせないかなという方向性もあるかもしれませんし、実際の仕事のなかでのむずかしい判断も、こんなふうに楽しむことができないかという考え方もあるかもしれません。

ワークショップというものの存在意義のひとつとして、「感じることは、学ぶことよりも何倍も価値がある」ということがいわれますが、今回、このワークショップを行なってみて、参加していただいた方々の表情などを見て、物事を伝える方法というのはもっともっと多様で、工夫の余地があるということを強く印象づけられました。今まで、自分がやってきたことを反省する機会にもなりました。

ビジネスも、教育も、音楽やアートも、そのようなジャンルなど関係なく、人が人に何かを伝えるということの可能性は、もっと多様にある。すべてのことはやりつくされているように感じてしまうことがあるけど、本当はまだまだ未知の可能性がいっぱいあるのではないかと思わされました。

そういう意味では、僕自身、多くを学ばせてもらったと思っています。参加してくださった方、関係者のみなさん、ありがとうございました。

解像度に依存しないUIへの流れ

Ratinaディスプレイの登場で、Ratinaディスプレイを考慮した画像解像度の画像が必要になっていたりするが、実際のところ、スマートフォン/タブレットで拡大表示すれば、Ratinaディスプレイでなくても、解像度をいくつにしていてもどこかで荒れた状態にはなる。Ratinaディスプレイの登場以前に、すでに画像解像度とモニター解像度の関係が1対1ではなくなってしまっていたことになる。(それ以前にも厳密に1対1だったわけではないが)

これまでは、「美しい書体を使ってきれいに表現したい」という理由で見出しを画像にしてきたが、スマートフォン以降の時代では、同じ理由で見出しを画像で表現するのをやめることになる。写真はともかくとして、できるだけピクセルベースの画像をUIの部品から排除するということが、Webデザインで求められるようになってきている。これまでWebはピクセルという単位が基本になってきたが、そこからできるだけ離れて、画像解像度に依存しないUIへと動きはじめているし、そのための技術も出揃ってきている。フラットデザインも、レスポンシブルレイアウトも、CSS3やWebフォント、Bootstrapといったものも、すべて同じ文脈で捉えることができる。

Fireworksの開発中止というのも、これと同じ文脈で考えられる。もともと、Dreamweaver & Fireworksはテーブルを使ったレイアウトを効率的におこなう制作環境として登場した。CSSでのレイアウトが中心になってから、CSSに対応しようとし続けてきてはいるものの、決定的なツールといえるところにまでは到達できていなかったと思う。とはいえ、Fireworksはまだまだ実用的に使えるし、本当は、この流れでいったらFlashが便利ってことになるはずなんだけど、世の中ややこしい。

Webの技術を個別に見ていると、それぞれは速いスピードで変化しつづけていると感じてしまいがちだし、実際そうではあるのだけど、大きな流れ、文脈をつかんでいると、それほどむやみに、勝手な方向に動いているわけではないと思う。こうした大きな流れの向きをできるだけ感じとることが必要だと思う。