チームを作る

仕事をうまく進めるには、いいチームを作ることが不可欠だと思う。これが一番難しいのだけど。

「クライアントに振り回されるWebデザイナーに共通した、たった一つの特徴」で語られている、クライアントの指示は違和感の訴えであり、額面通りに受け取ってその支持通りに修正してしまうと、誰がデザインしているのかわからなくなるというのは、まさにその通り。

この場合、デザイナーと発注担当者が直接話しをしているのだけど、代理店が入ったり、同じ会社のなかでもディレクターや営業の人が間に立ったりすると、デザイナーと直接話すことがあまりできないということになり、さらにややこしい事態になる。一度修正を受けてしまったら、後から否定するのはむずかしい。本来、間に立つということは、その人が司令塔になるはずなので、その人の判断でクライアントを説得するなり、デザイナーに修正を支持するなりすればよいのだけど、間に立った人が意志を持たないで、双方の言い分を伝えるだけの伝書鳩になってしまうと、絶望的な状況になる。

この時、この間に立つ人というのは、「無難に仕事が片付けばいい」と思ってしまっている。心のなかでは部外者なのだ。こういう人はプロジェクトを進めるうえでのチームの一員ではない。むしろ、いないほうが仕事はうまくいく。大手代理店などに発注して、製作は外部で、ひどい時には何段階もということになると、部外者意識をもった人ばかりが間に何人も入ってくることになる。大きいプロジェクトになるほど起こりやすい。

重要なのは、部外者意識をもった人がいないようにし、個人として信頼しあえるチームを作ること。作業する人数は大きくても、重要な判断をする中心の部分はできるだけコンパクトにすることが重要だろう。目標を共有し、愛情を注げるなんてことは、それほど多くの人数ではむずかしい。発注の段階で、受発注関係を整理して、シンプルで強固なチームを作るということが大切だと思う。ここがきちんとできていれば、困難なことがあっても、たいていはうまくいく。本当に、難しいところではあるのだけど。逆にうまくいっていないときは、今の制作体制は、チームと呼べるような存在になっているだろうかと見直してみることが必要だと思う。

「広義のデザイン」に抗議する

「デザイン」という言葉が、とてもややこしいことになっていると感じている。Wikipediaのデザインの項目を見ても、なんだかややこしい。

デザインを専門にしない人に、「デザインの仕事をしている」というと、「ファッションですか?それとも…」のような返答が返ってくることが多い。デザイン学科の多くは美術大学や造形系の学部のなかにある。「デザイン」という言葉は、一般のなかでの認識としては、造形的にものを作る部分に対して使われることが多いだろう。

ところが、デザインの専門家とされる人の多くは、それは「狭い意味でのデザイン」だと主張する。最終的な形態を決めるには、もちろんそれに付随する多くの事柄を検討する必要がある。社会のなかでの役割や経済性、環境への配慮、多くの人が使いやすく使えることなど、純粋に形を作る技術だけでは「デザイン」という行為はおこなえない。それは確かに正しい。

でも、それってデザインに限ったことだろうか。お花屋さんも、作家も、ミュージシャンも、弁護士や医者も、会社員でも、自分の技術だけで仕事をしているわけではない。意識的であれ、無意識であれ、それをとりまく社会のなかでの位置づけを計算しながら仕事をしているし、それによって様々な問題を解決している。それは、デザインに限らず、当たり前のことだ。

「広義」がふくれあがってしまった背景には、デザインは設計だというような翻訳の問題としての面と、比喩的な使い方をしているうちに、比喩なのか意味を拡張しているのか曖昧になってきてしまっているようにも感じる。

言葉がコミュニケーションのツールだとすれば、できるだけ多くの人に理解できるような意味で用語を使用することが望ましい。どんな言葉にも、より深い意味を込めることは可能だが、この言葉には、実はもっと深い意味があるんだといって、密かに自分だけ頭がいい人のようなふりをしても意味はない。「広義」といって、一つの言葉に多くの意味を込めるのは、曖昧な思考の表れだといえる。コミュニケーションという面では、一つの言葉に曖昧に多くの意味を込めるより、それぞれが意味することをより的確な表現で表した方がよいはずだ。

「デザイン」という言葉についていえば、一般の人の多くが「デザイン」という言葉を、専門家のいう「狭義のデザイン」の意味で使っているとしたら、できるだけ一般の人が認識している意味で使うのが好ましいと思う。いわゆる「狭義のデザイン」と「広義のデザイン」の差の部分に関しては、「デザイン」という言葉に押し込めてしまうのではなく、一つひとつ言葉を割り当てて語るようにしていくべきだと思う。

現代のデザインにはコミュニケーションを設計するという部分がある。しかし、「広義のデザイン」という表現には、ユーザビリティもなければ、コミュニケーションの確実性を思いやる気持ちも感じられない。「広義のデザイン」という表現自体がデザイン性のない表現だ。「広義のデザイン」という言葉を使ったり、「デザイン」という言葉に多くの意味を込めてしまうのではなく、その差異の部分を、きちんと考えて言語化していくことは、デザインというものが社会のなかできちんと位置づけられ、認識されることにつながるだろう。そして、ここの部分を曖昧にせずにきちんと考えることには、デザイナー自身にとっても、とても大きなヒントになるはずだ。

追記
「抗議する」というほどのことでもないんですけどね。韻を踏んでみただけで。

(価値を生みだす装置としての)デザインの話をする場

最近、デザインを発注する立場の人を対象にしたセミナーで話す機会が続いたので、実際の仕事のなかではあまり聞けない、発注サイドの悩みを聞くことができた。困ったことを解決したいからセミナーに来ているという面もあると思うが、デザイナーとの関係で困っている人がとても多いように感じる。

一つは、代理店や制作会社、印刷会社に発注していて、ディレクターや営業の人とは話せるけど、デザイナーとはあまり直接話せないので、コミュニケーションがとりにくいという場合。もう一つは、直接話せても、うまく思いを伝えられないという場合。どちらもせいいっぱいの仕事をしているとしても、デザインを依頼している人の思いとデザイナーの意図がうまく結びつかないということは、やはり少なくない。

デザイナーと発注者は、一つの仕事をはさんで向き合うのだけれど、利害がからむと見えにくくなってしまうことというのもあるように思う。その仕事を完結させることが最優先なので、それ以外のことを話している余裕がないし、会社としての立場や責任がからんでくると、人と人として向き合えていないという状況になることもある。本当はそうではいけないのだけど。

具体的な仕事をはなれて話すことができれば、もう少しお互いに理解が深まるような気がしている。イベントを企画して予約して集まるとかではなく、イギリスのパブみたいなキャッシュオンのスタンディングのところで、「この日に行くとデザインの話ができる」みたいなことができたらいいなあと思う。スポーツバーのパブリックビューみたいな感じかな。そこに来る人の共通のテーマ(関心事)だけがあって、誰とでも話せるというような。

もちろん、デザイナー同士が話してもいいし、学生や企業でデザインを発注している人でも、間でディレクションしている人でもいい。ただのデザイン好きでも構わない。色々な立場の人が、なんとなくゆるく集まって、「デザインの話をする場」を作ることはできないかなあと思っている。すでにあるかもしれないけど、そういうのが所々にできるようになると、街が価値を生みだす装置として機能しだすと思うのだ。

洗練と解体の蛇行

GUのロゴの記事の気持ちはよくわかる。新国立美術館とか、ビックロのオープンの時とか、自分の感覚としては、とても気持ち悪いと思った。ある程度デザインを見ている人には、好き嫌いはともかくとして、ある種の違和感を感じるデザインではあると思う。

ただ、その違和感は、おそらくデザインにあまり関心のない人も、意識しないレベルで感じていて、それが広告的には「ひっかかり」となって作用している。それを意図的におこなっている。しかも、それで実績ができていて、仕事として成立させることができているので、商売としては(クライアントサイド、デザイナーサイドともに)、一つの正解と言える。ビジュアルデザインの文脈のなかでのクオリティはともかくとして、ビジュアルデザインの使い方としては、(現時点では)非常に高度といえる。そういう意味では、目的のために高度にコントロールされたデザインではある。ふと考えてみると、音楽の質が高いとはいえないとしても、音楽を使ったビジネスとしては大成功しているAKBも同様かもしれない。

幾何学的造形は「点」というものを考えてもわかるように、概念的なものだ。正確な(概念に非常に近い)幾何学的図形は、もともと自然界のなかでは異物感がある。自然に響く楽器音で作られた音楽のなかでサイン波の音を使うと、非常に強い異物感がある。サイン波でなくても、純粋なシンセ音は、かなり異物感のある存在になる。それを使う時に、異物感を目的とするのか、周囲の音に馴染ませるべきかという問題になる。円というもともと異物感のある存在に対して、それを人間の感覚に馴染ませるという繊細さも、異物感をそのまま活かすという手法も、理論的にいえば、どちらが正しいというわけではない。繊細に構築された世界に価値があるのと同様に、異物感を愛でるという方向性も存在する。

これはパンクなどとも共通するあり方で、
旧来の音楽家 「そんなにディストーションかけたら、ピッキングのニュアンスもわからないし、和音も濁るだろう。」
パンクロッカー 「そんなの関係ない」ジャーーーーン。グワーーン。
パンクファン 「おお、かっこいい!」
みたいな。

どんな世界も、洗練と解体を繰り返して、その振り幅のなかで蛇行することで進んで行く。多くの職人によって作られ、守られてきた「良い仕事」には価値があるのだが、当初「良い仕事」とされていたものは、長く続くにつれて様式化し、硬直したものになってしまうことがある。時には、プリミティブな、幼稚ともいえる手法でそれを破壊することも必要になることがある。その両者がバランスよく存在することが必要なのだと思う。

わかりやすそうで、わかりにくいこと

パソコン関係やAV機器、楽器関係は好きだし、まあわかるのだけど、家電ってわかりにくいよなと思ったのが以前の記事を書いた動機でもある。たとえば、床暖房で、強・中・弱の設定がある。これとは別に温度の高・低の設定がある。強の低と、弱の高はどっちが温かいの?どっちが省エネなの?とか。

お風呂で、お風呂の温度設定を41度に設定したとして、給湯温度の設定を60度にして蛇口で41度になるのと、給湯温度を41度にするとのどちらがいいのか(給湯温度が41度だと少し冷めてしまうだろうから、少し高めがいいと思うけど)。点検にきた東京ガスの人に聞いたのだけど、「フルパワーはあまりエコではないんですけど」というだけで、どの設定がいいとはいえないようだった。使うのは使いやすいし、使い方がわからないわけではない。日常的に困るということではないんだけど、よく考えるとよくわからないことってある。

電子レンジも、料理ごとの設定はたくさんあるのに、500Wと800Wをどういうときに使い分ければいいのかはマニュアルには書いていない。オーブンの強火・弱火はわかるけど、レンジで使い分ける状況ってどうなんだろう?飲み物モードがあるのに、「飲み物モードでお燗はできません」って書いてある。何でだよ、理由を述べてくれよといいたくなる。そもそも、料理ごとのメニューの一番はじめがなんで「もやしのナムル」なの?細かすぎないか?

PC系はわりと理屈がわかりやすいのだけど、家庭用製品って、一見わかりやすそうにするために、内部でどういうことをしているのかがよくわからないので、最適の設定がなんなのか、よく考えようとするほど、よくわからなくなる。わかりやすそうにするってことは、何かを覆い隠して、ブラックボックスにしてしまっている場合が多いので、そうすると、かえってわかりにくいということは起こるなあと思う。

基本的な考え方を理解してもらったほうがいいのか、ブラックボックスにしてしまったほうがいいのかというのは、判断がむずかしいかもしれないが、もう少し基本的な考え方を簡潔に伝えることはできるような気がする。

ウェブで仮名書体を活用したい

ウェブのフォント設定で、欧文フォントを先に指定してから和文のフォントも指定しておくと、欧文部分だけ別のフォントで表示することができる。これはとても便利。欧文書体にWebFontを使うこともできる。

日本語のWebFontのサービスもでてきているけれど、和文書体のデータサイズを考えると、トラフィックの無駄な感じは否めない。欧文部分だけを別のフォントにできるのと同じように、仮名部分だけを別のフォントにすることができると、かなり表現の幅を広げることができてうれしい。印刷物ではたまに使われる表現。あまりわかりやすい例ではないけれど、こんなふうに通常の明朝に、もう少し筆書きぽい書体をあわせて、柔らかい印象にするというようなことができる。

現状、仮名だけのWebFontを提供しているサービスは知らないので試してみてはいないけど、あっても漢字を使ってしまうと文字化けするんじゃないかな。たぶん。仮名しか使わないという部分には使えるだろうけど、うっかり漢字を使ってしまうと文字化けして危険。

仮名書体ならアルファベットと同じくらいのデータ量で、WebFontとしても抵抗なく使えるので、このあたり、うまく対応できるようになったら、仮名書体が盛り上がりそうだし、画像化しないでデザインの表現の幅を広げられるのはうれしい。

別のデザインの書体を組み合わせて使うというだけでなく、文字幅情報の違うフォントを組み合わせることで、テキストデータのまま、データに複雑なコードを埋め込むことなく、見た目上の文字間隔を若干詰めるとかできると、とてもありがたい。

YouTube動画による使い方説明

昨年末にはじめて電子レンジを買った。オーブンは使っていたけど、電子レンジって使ったことがなかったんだよね。なんというか、暖まる仕組みが腑に落ちないというか。でも、使ってみると、やっぱり便利。はじめのうちは、ちょっと怖くて、ずっと見てた。いつの時代の人間だと言われそうだけど。

PC関係はマニュアルとかまったく読まないのだけど、今回はよく読んだ。でも、家電とかのマニュアルって、必要なことがわかりにくいし、どこかに置いておかなければならないし、面倒だと思う。最近では、ウェブサイトからダウンロードもできるようになっているけど。

楽器系とかでは、YouTubeの動画で使い方を説明してくれていることがある。KORGとかはいい例だと思う。

このように、製品を使うにあたって知っておきたいことをYouTube動画で見せてくれると、こんなメリットが考えられる。

・知らなければならない事柄をまとめて知れる
・使っているシーンを視覚的に理解できる
・人の話す言葉で使い方を理解できる
・商品名の検索ですぐに見つかり、いつでも見直せる
・紙のマニュアルのようになくさない
・使いやすさ、便利さのプロモーションになる

基本的な部分だけで構わないし、本格的な撮影である必要もない。製品によっては、プロのナレーターよりも、開発者とかの話す言葉のほうがリアルに響いてくることもあるだろう。

すでにおこなっているところもあるけど、家電などの製品の使用上の注意、基本的な使い方をYouTube動画化することが、「基本」になるといいなあと思ったのだった。イメージだけで売るのではなくて、きちんと内容を伝える、そして作り手の思いを伝えるという形でのユーザーとのコミュニケーションを作っていくことが重要性を増してくると思うのだ。

(facebookコメントの設定にエラーがあったので、コメントが消えてしまいました。すみません。)

誰かが何かを感じてくれるかもしれないと思って形にする作業

放送大学の「芸術史と芸術論」を見た。戦争に関連する内容で、ピカソの「ゲルニカ」とユダヤ人としてのシャガールをとりあげていた。簡単にまとめてしまえば、現代の戦争の悲惨さ、残忍さを告発しているから素晴らしいというものだった。ちょっと、クラクラしてきた。それって芸術理論なのだろうか。(芸術史としては、現地取材もしてよくまとまっているので、すべてを否定するわけではない。)

そんなことをいったら、戦争を自分で体験した老人の言葉なんて、どれも価値ある話のはずだが、耳を傾ける人は多くない。美術でも、音楽、文学、映画などでも、何を語っているかで価値を決めるなどということはありえない。何を語っているかが重要なのだとしたら、すべての表現活動は、企画書1ページですむ。1行のコピーでいい。1冊の本を読む必要も、2時間かけて映画を見る必要もない。そのほうがむしろ明快で、だれにでも伝わる。でも、それでは伝わらないことがあるから表現する。いかに語るか、そこにこそ表現の素晴らしさがある。

デザインの場合も同様なのだけど、伝えるべきことがあって、そのためにデザインがあると考えがち。それが今、正論とされているように思う。でも、同じ内容でも、見ず知らずの他人から聞くのと、自分が信用している人から聞くのでは、受け止め方がまったく違う。知らない人から言われたことは3分後には忘れているかもしれないが、信頼している人から聞いた同じ言葉は、人生を左右することになるかもしれない。内容ではなく、伝え方のほうが重要であることは少なくない。むしろ、ほとんどの場合、伝え方のほうが重要であるといえるかもしれない。

美術でも、音楽でも、文学でも、デザインでも、「誰かが何かを感じてくれるかもしれないと思って形にする作業」は、内容よりも大切な、「享受する過程」というものを信じることのような気がしている。理論化するのはむずかしいけれど、深く考えるべきはその部分だと思う。

デザインとアートのあやうい関係

よく、「アートとデザインは違う」と言われる。特にデザイナーがこの言葉を口にすることが多いように思う。デザインにはクライアントがいて、表現すべき目的があり、自己満足の表現ではないという。では、アートには、クライアントがいなくて、表現すべき目的がなくて、自己満足なのだろうか。アートに対する認識が偏っているのではないか。

依頼された絵としての「最後の審判」

ミケランジェロの「最後の審判」は、ローマ教皇クレメンス7世に依頼されて描かれた祭壇を装飾するための絵といえる。クライアントがいて、目的もある、自己満足というわけではない絵だ。壁画のような絵は多くの場合同様だし、工房で描いていたものも多い。画家の多くは肖像画を描くことで収入を得ていたが、これもクライアントがいて、明確な目的がある。

現代アートを見てみても、マルセル・デュシャンが「泉」などの作品で示したように、アートとは何かという問いかけも含めて、アートの文脈のなかでの批評性を含んだ行為であり、アートは決して「自己」吐き出したものではない。現在の売れているアートは、村上隆氏の活動でもわかるように、アートマーケットをきちんと意識したものであって、デザイン以上に商業面で戦略的だといえる(悪い意味でなく)。どうしても、アート・芸術というと、ロマン派的な自己表現と捉えられがちだが、それはごく一部のことで、ロマン派だって、自己表現だけで成り立っているわけではない。

ものごとのありように価値を生じさせる

アートとデザインは、言葉としても分けられているのだから、一緒だと言い切るつもりはないのだけど、「ものごとのありように価値を生じさせること」という意味では、アートもデザインも変わりがないと思う。

強いて言えば、デザインが「課題に対する回答」であることが多いのに対して、アートは「問いかけ」であることが多いという点が大きな違いのように思うのだけど、回答のなかには、課題そのものの解釈など、新たな問いかけがあるものだし、問いかけのなかには、仮説が含まれていることが少なくない(非常に抽象的な言い回しで申し訳ない)。

単なる回答を超えたもの

「アートとデザインは違う」といいたいデザイナーの気持ちは、よくわかる。でも、そんなにムキになって主張しなくてもいいんじゃないかと思っている。アーティストはあまりこういうことを言わないのに、デザイナーが強く主張するという背景には、デザイナーは職人であり、仕事人。ゴルゴ13みたいに、依頼されたことをプロとして処理しているんだという、ある種のニヒリズム的な想いを感じてしまうのだ。ある種の逃げというか、言い訳のように感じてしまう。「アーティストは自分勝手にできていいよな」というような。でも、本来はどちらが上位でも、どちらが自由でもないはずだ。デザインが、「課題に対する一つの回答」であるとしても、回答を超えた部分をもちたいと思っていることも、悪くないと思う。

ブルーノートのアルバムジャケットの多くをデザインしていたリード・マイルスは、ジャズ好きでもなかったわけで、与えられた課題に対する回答として、多くのアルバムジャケットをデザインしていったのかもしれない。でも、そこには遊び心があり、単なる回答を超えた部分があるから、今見ても新鮮なんだと思うのだ。

It's Time

クリエイティブな活動をしている人たちが、正当に評価される

先日発表されたグラミー賞で、InterFMの中継の最後に、「クリエイティブな活動をしている人たちが、正当に評価されたという印象がある」といっていたが、まったくその通りだと思う。羨ましいくらいに。

最優秀レコード賞
Gotye feat. Kimbra : Somebody That I Used to Know

最優秀アルバム賞
Mumford & Sons : Babel

最優秀楽曲賞、最優秀新人賞
Fun. : We Are Young

最優秀新人賞ノミネート
The Lumineers – Ho Hey (Official Video)

もちろん、日本にも面白い音楽家はいるのだけど、それが正当に評価される環境があるか、ポピュラーな賞をとったり、半分以上の人が知っているというような状況になるかというとどうもそうは思えない。反論も多いとは思うが、今、日本の音楽と欧米の音楽の間に、かつてないほどの質的な格差が生まれてきてしまっているように思う。経済的な問題もあるのだろうが、欧米の優れた音楽が、アビーロードレベルであれ、プライベートスタジオレベルであれ、生き生きとした音を作り続けているのに対して、日本の売れている音楽は、パソコンのなかだけから生まれたチープなサウンドのものがあまりにも多い。

もちろん、そのチープさのなかに面白さを感じるのは、感性としてはとても高度なことだ。バラエティ番組で、いわゆるひな壇の芸人が、一瞬のリアクションにすべてをかけているなんていうのも、お笑いということから見ればとても高度なこと。しかも、見ている人までが、「今のリアクションいいよね」とか言っていたりする。ここには一つの価値観を共有した、高度に熟成した世界が生まれていると言える。閉じたゲームの世界のなかでの技みたいな。でもね。そのゲームの外側から客観的に見ると、そんなのどうでもいいよ。その努力は素晴らしいかもしれないけど、全体として面白くなければ、意味ないじゃないかと思ってしまうのだ。今の日本の多くの音楽には、これと同じものを感じてしまう。

マンガやアニメにしても、これまで作品としてクオリティの高いものもあったわけだけど、最近流行っているものは、ゴティエ系というか、ガロ系というか、人の心の奥深くに行こうというものよりは、AKB的なチープ&ポップ路線で、先ほどのバラエティ番組のような、それを楽しむこと自体をゲーム的に楽しむというようなものが多いような気がする。

一部には、ボサノヴァ、タンゴ、インド音楽など、現地の人以上にコアな人はいるものの、洋楽が売れないことでもわかるように、全体としては、今、極端に内向きになっているような気がする。こうした内向きの傾向は、音楽だけでなく、邦画が圧倒的に強くなっている映画も、デザインにも同じように感じる。歴史的に見れば、日本はこうした内向きの時期には、むしろ文化的に高い成果を残してきたのだけど、どうも今回はそうは思えない。感性的に世界的なクオリティの基準から乖離してきているようにみえる。海外で秋葉系のモノがうけるのは、海外のなかでもごく一部のことなのだから。

海外のものがいいとかではなく、もっと区別なく、「いいものはいい」と見れるようにならないと、そして、色々なものに関心をもっていかないと、アニメやAKBに夢中になっているうちに、日本は感性的に取り残されてしまうという危機感を感じている。そして、クリエイティブな活動をしている人たちが、正当に評価されるようになることを願っている。願っているだけじゃだめだけど。

MARUBI アーツ千代田3331展

MARUBI アーツ千代田3331展

先日、秋葉原のアーツ千代田3331で開かれている、長野県丸子修学館高校美術部の展示「マルビ」展を見た。3331に用事があったので、いわば「ついで」だったのだけど、予想を超える完成度に驚かされ、作者の生徒さんたちとも話ができて、とても楽しい時間を過ごさせてもらった。演劇の舞台美術を依頼されるなど周囲からも評価されている学校らしい。

好きな作品も何点もあったのだけど、全体として絵の背景を感じさせるような物語性のある絵が多く、共通のテイストを感じたのが興味深かった。同じ空間でものづくりをしているなかで、お互いに刺激しあってクオリティを上げていっている感じがするのだ。しかも楽しみながら。会社などでも、ものづくり組織というのは独特のカラーが生じる傾向があると思うけど、その良い例としても、とても興味深い。

もっと早く書くべきだったのだけど、展示は今日いっぱいなので、興味のある方、近くに行く用事のある方は、ぜひ。

MARUBI アーツ千代田3331展

MARUBI アーツ千代田3331展

「プロは結果がすべて」なのか

『南極物語』とか、『敦煌』のような厳しい環境での撮影に必ず呼ばれる俳優がいたという話を聞いたことがある。もちろん、演技力も評価されていたのだろうが、その人がいると現場が楽しくなるということも評価されていたらしい。

サッカーの世界では、今バルセロナのサッカーが世界中の憧れになっている。単に勝つだけでなく、美しいパスワークで観客を魅了するサッカーが評価されている。00年代はじめまでは、どちらかといえばスピードや高さといった体力重視の単純に攻めて負けないサッカーが主流になってきていたのだが、ここ数年で流れが変わってきた。

よく「プロは結果がすべて」という言葉を聞くことがある。ぼくは、これをあまり好きではない。バルセロナ以前のサッカーのようで。もちろん、結果にもある程度は責任を持つ必要があるけれど、結果プラスアルファの部分が重要だと思っている。見て楽しいバルセロナのサッカーや、前述の某俳優のように、結果に至るプロセスの魅力というのも重要だと思うのだ。

デザインのプロセスの2つの意味

デザインにおけるプロセスには、2つの意味がある。ひとつは、いわゆるワークフローとしての意味。仕事をこうやって進めて行きましょう。コンセンサスを作って行きましょうという過程。仕事の進め方として、あの人に任せれば安心できるとか、あの人を打ち合わせするのは楽しいというのは一つの価値だろう。もうひとつは、デザインを作り上げるためのプロセス。どういう思考で生まれてくるかということ。

ぼくは、デザインのルールとか、原則という考え方があまり好きではない(そういう本に寄稿していたりもするが)。単発のルールを組み合わせればそれが「デザイン」になるとは思っていないから。むしろ、組み立てる思考の流れこそが重要だと思っている。『デザインの教室』『デザインの授業』で書いたのは、そういうことなのだけど。

それはデザイナーに向けているとともに、特に『デザインの授業』では、デザインに関わるデザイナー以外の人にも向けているつもり。それが唯一の方法ではないとしても、デザインするうえで、これらの本で紹介しているような思考の流れがプロセスとしてあるということを理解して欲しい。そうすれば、デザインが知的生産物であり、昨日の記事の天王寺区役所のような「デザイン=0円」になったりするようなものではないということが、理解してもらえると思っている。

天王寺区役所のような話を聞くと、デザイナーの側も、デザインというものを社会にもっと理解してもらう努力をする必要があると痛感する。それは結果を高めることとともに、デザインが生まれるプロセス(2つのプロセス)を理解してもらうことが必要だと思う。

過程こそが大切(天王寺区デザイナー募集に関して)

大阪市天王寺区役所の「デザインの力で、行政を変える!!~天王寺区広報デザイナーを募集します~」という発表が、しかも報酬はなしということで話題を呼んだ。これについては、反対意見が多く集まり、微修正されたが、「デザインと社会との関わり方」を考えるうえでは、とても興味深い事柄を多く含んでいる。

デザインになんてお金を払いたくない、素人にデザインさせたほうがまし、ともいえる行いに対しては、デザインに関わっている人間としては悲しく思うのだが、社会のなかでデザインがどう受け取られているかを表しているともいえる面もあるので、自分に関わる領域に火の粉が降ってきたから、とりあえずムキになって払いのけるというようなことをしていてはいけないと思う。そんなことをしていると、音楽業界と同じようなことになってしまう。

そこで、一つの問題として、プロに発注したポスターと、報酬は無料だけど名前は出しますといって一般に募集して選んだポスターで、結果はどちらがよいのかを考えてみる。

そもそもデザインにおいて、プロとアマチュアの実力差というのは、どれほどあるだろうか。最近では、ビジネス文書や年賀状、その他さまざまなシーンで、アマチュアでも自分でデザインすることはある。実際、とてもデザインのうまい人はいる。アメリカのテレビ番組、『アメリカンアイドル』で、プロの歌手以上に歌のうまい人が何人もいるように、うまいか下手かという面だけを考えてみると、下手なプロより質の高いデザインができるアマチュアは少なくないだろう。(あくまで「下手なプロより」、高いレベルを問題にしているわけではない)さらに今は、ソフトウエアの機能が助けてくれる。デザインなんてそんなものだ、そういう人たちをうまく使いたいと考えるのは無理もないのかもしれない。

また、プロって何だということも問題だ。印刷会社に発注して、入ったばかりの新人に、「役所のポスターだから、適当にデザインしてみて」などということもないとはいえない。プロに発注といっても、デザイン会社なのか、広告代理店なのか、印刷会社なのかさまざまだし、いい加減な人やモチベーションの低い人、忙しすぎて片手間な人などもいる。直接デザイナーと話せることもあれば、ディレクターや営業にしか会えず、誰がデザインしているのかわからないということもある。発注先を決めるというのは、本当にむずかしい。実際、これまで制作してきたものに対する不満から、今回のようなことを考えたのだろう。

特に、ポスターやチラシといったものの場合、アイディア勝負という面もあるので、何も浮かばなかったプロよりも、多くの作品を募集したほうが結果的にいい場合もある。イラストも描けて、魅力的だったりすると、それだけでポスターとして成立してしまうこともある。インターネット上には、一冊の市販された本よりも価値のあるブログは存在する。数が集まれば、確率的には小さくても一定の割合で良いものはある。ブログからの出版が当たり前になりつつある現状を考えれば、デザインの場合も、理屈としては同様だ。

今回のように「報酬はなし、名前を出します」というだけで、どれだけの応募が集まるかには疑問があるが、プロに発注と公募で、どちらがいい結果になるかはわからない。応募する人しだい、いわば運まかせだ。ウェブのように設計的な要素の高いものに素人が関わるのは極めて危険だが、ポスターやチラシのように単発の制作物の場合、そのうちのいくつかがひどい出来でも、それほど影響はないのかもしれない。しかし、運まかせにしてしまう、いわば博打的な仕事のスタイルは問題だと思う。

伝えたいことをきちんと伝えるためには、「伝えたいことを整理する力」が必要になる。実は、これは簡単ではない。発注者がまとめた内容だけでは、ニュアンスまでは判断できない場合が多い。仕事としてデザインを受けた場合は、デザイナーはそれを聞き出して形にする。ところが公募の場合は、箇条書き程度の情報から読み取って応募してくることになる。その表現が伝えたいことに適しているかどうかはわからない。

そういった状況を助けてくれるのが、「複数のなかから選んだ」という事実なのだろう。20個の案のなかではこれが一番。だから、これが最適な表現だと結論づける。言い訳できる根拠があればいいというのは、実にお役所的な考え方だが、世に多くあるコンペ形式での発注先選定も同様だといえる。

「デザインで行政を変える」ということを目指すのであれば、「応募してきた作品のなかから選びました」ではだめだろう。変えるためには、方向性が必要になる。どこを目指すのかが必要なのだ。しかし、現状は「変える」というだけで、方向性は示されていない。バラバラに応募された作品群は、おそらく方向性を示してはくれない。進むべき方向性は、考えるプロセスのなかから生まれてくる。前述のとおり、プロに発注か公募か、結果的にどちらがいいかはやってみなければわからない。しかし、プロは(ある程度きちんとしたプロのデザイナーは)プロセスを組み立てる力を持っている。プロの強みとは、むしろ制作過程にこそある。

本当にデザインで行政を変えたいのなら、むしろ自分たちこそが裸になるべきだ。例えばポスターを企画する。プロに発注しても、公募しても構わない。オーダーするときに、どういうオーダーにするか、どこに焦点をあてることにするか、それがどういう過程で絞り込まれて来たか、いくつかの案のなかからどういう基準で選んだか、どこを修正してもらったか、デザインの発注を含めた編集の過程をすべてオープンにしてしまえばいい。変わるべき課題は、発注先というよりは、おそらくそのなかにある。それが見えてくる。編集作業自体をオープンに、インタラクティブにしてしまうことで、「伝える」ということに関しての問題点、変わっていくべき方向性が明らかになるし、行政と発注先との関わり方、ネットワーク時代の行政というものの新しいスタイルが見えてくるのではないか。

手法はともかくとして、「デザインで行政を変える」ということを目指すのであれば、他人(公募で応募された作品)にすべてをゆだねてしまうのではなく、制作の過程を見直して、変えて行くべき方向性を見定めるべき。実は、それこそがデザインなのだ。プロセスがしっかりしていれば、結果はある程度想像することができ、博打的ではなくなる。きちんとしたプロのデザイナーはその部分を提案する力を持っているはずだと思う。

Windowsにヒラギノを

いまさらだけど、Windows8は評判どおり使いにくい。画面右上にカーソルをもっていてスタート画面を出すなんて、説明されないとわからないし、わかっても面倒くさい。メモ帳を開いたり、電源を消す方法をネットで調べることになるとは。ゲームはすぐできるのに、テキストファイルとして文字を書くことがすぐにできないOSって、いったいなんなんだろう。スタート画面のなにもないところを右クリックしてすべてのアプリを表示するなんて、長い間コンピュータを使ってきたけど、思いつかなかった。何もない部分で操作させるなんて、新規の作成ならともかく、ビジュアル的なインターフェースとして破綻している。今までのWindowsでの操作の基本が通用しないので、WindowsXP→Windows8よりも、WindowsXP→Macのほうが、自然に移行できるんじゃないかな。なぜ、これがそのままリリースされたのか不思議でしかたがない。

一番厳しいと思ったのは、文字の汚さだ。いくら背景の写真をきれいにしても、文字が汚いとすべてが汚く見える。メイリオとか言っていないで、ヒラギノ使っちゃえばいいじゃない。すべての画面で、美しさが全然変わるし、日本における統一的な文字の表示環境ができる。明朝とゴシックがあり、本文用の細い書体と見出し用の太い書体があり(「太字」ではなく、大見出しにも使えるしっかり太い書体)、同じサイズの設定をおこなえば、OSが違っても文字の大きさ、行間、字詰めに違いはないということ。それは、とても重要なことでしょう。そのためには、ライセンスに関わる費用が必要になるけれど、Windowsの商品価値の向上を思えば、投資する費用以上の効果はあるはず。価格に転嫁したって、何割も高くなるというものでもないだろう。マイクロソフトも大日本スクリーンも、お互いにメリットはあると思うのだが。

Windowsに美しい見出し書体があれば、ウェブで文字を画像にするなんていうことも、ずいぶん前に終わっていただろう。そこで失われた作業時間、転送するデータ量、そして文書データとしての品質は計り知れない。そろそろ、日本の文化に貢献してくれてもいいんじゃないか。

極端な話、最低でも明朝とゴシック、それぞれ数段階の太さのファミリーの書体を搭載していない端末は、法律で禁止するくらいのことをしてもいいんじゃないかとすら思う。フランスがもしこういう状況にあれば、迷わず法律を作りそうだ。

ヒラギノじゃなくても、基本書体をファミリーで搭載していればいいともいえるのだけど、前述のとおり、どうせならPCでも、タブレットでも、スマホでも、ウェブも電子書籍も同じ書体で同じように表示できるようになると、文書を表示するうえでの基盤ができる。そのうえで、特殊な部分でだけウェブフォントなどを使えばいい。

パソコン用OSの用途として、ウェブの閲覧や文書作成は基本だろう。それなのに、見出し用書体も標準搭載しないで発売するなんて信じられない。と怒りはじめて10年くらいになる。こういう話をしても、わりと共感されないんだけど。

リノベーションとデザインの金融的価値

1月28日(月)に、東京大学で開かれた公開講座「知と幸福」で、原研哉さんの授業を聞いてきた。(なぜか、授業が終わったら、授業の紹介のページが消されてしまっていた。)

2月に開催される展覧会『House Vision』がテーマになっていて、スケルトン&インフィルによるリノベーションなどについて語られた。住宅は金融商品ではなく、生活の道具であり、もっと個性的な住み方があっていいという考え方はその通りだと思う。しかし、「こんなのいいでしょ」とデザインとしての提案を見せればそれで変わっていくのかというと、自分の体験から考えても、それだけではむずかしいと感じた。

中古物件を買ってリノベーションするためには、中古での物件購入費に加えて、リノベーションの費用がかかる。リノベーション用のローンなども出てきているが、さまざまな形で守られている住宅ローンにくらべれば、借りやすいとはいえない。新築のマンションや新築建売りの場合は、住宅ローンがひとまとまりになって比較的借りやすいし、減税もある。これに比べるて、中古のマンションや戸建てを買ってリノベーション、建て替えをするとなると、支払い時期や支払先も別れてしまう。それにあわせて資金を用意するとなると、ある程度、資金に余裕がないとむずかしくなってしまう。でも、資金に余裕があれば、はじめから新築にしてしまう、という矛盾。画一的な既存の新築購入に比べて、中古物件購入+リノベーションによって個性的な住み方を目指したほうが、資金を調達しにくいのだ。これに加えて、「築何年」という目安としては、はじめに建てられた年が、物件価値とされてしまう。

中古物件がリノベーションされて、物件の価値が高まれば、お金を貸しているほうにとっても良いことのはず。しかし、今の銀行はそういう判断はしない。個性的ということを、汎用性のなさ、つまり売りにくい物件として、資産としては価値が低いと考えてしまう。非常に貧しい発想だと思う。企業の場合は、経営を立て直して、企業の価値を高めるという発想もあるのに。

また、住宅ローンの場合、銀行がお金を貸すとしても、判断するのは保証会社ということになり、保証会社は別会社なので、銀行は「保証会社の判断なので」と責任のがれできる構造になっている。

シリコンバレーからさまざまなIT企業が生まれてくるのは、技術者だけでなく、投資する側とセットになっているからだという。現在、ある程度、お金のかかることをおこなうとしたら、金融を無視するわけにはいかない。リノベーションして住み替えるという方法を一つのパターンとして広く認知してもらい、金融機関も巻き込んで、デザイン的な価値や個性的な住み方という価値を、金融的な価値としても認めさせていかないとなかなか実現できない。

大きな企業を巻き込んでこういう展覧会を開くのだったら、ぜひ、金融機関なども巻き込んで進めてほしいと願っている。授業のあとのアンケートにも、こんなことを書いた。

先週の多摩美での授業はワークショップ的だったので、大教室の講義というスタイルの授業は大学を卒業して以来だと思う。客観的に見ることができて、何かを考えるにはとてもいいと思った。こういう公開講座は、各大学積極的に開催して欲しい。

授業のあと、学食でラーメンを食べた。本日の定食は「鍋」だった。鍋が食べれる学食っていいな。でも、夜の東大キャンパスは異常に暗かった。

多摩美の「プレデザイン2013」にいってみた

1月25日(金)に、多摩美術大学の「プレデザイン」という授業が公開授業になっていたので行ってみた。授業を担当されているのは、『自分の仕事をつくる』などの著書を持つ西村佳哲さん(Living World)、ゲストはグラフィックデザイナー佐藤直樹さん。

イベントという感じではなく、通常の授業が公開されているだけという感じだったので、大学についても掲示など何もなくて不安だったのだが、時間になると教室のテーブルを並び替えたりしているのが見えたので、どうやら間違いではなかったのだと一安心。

教室には長テーブルが並んでいて、はじめに外部の人が1テーブルに一人ずつ座り、そこに履修している学生さん達が3人程度ずつ座っていくという形で席についた。西村さんの全体的な話のあと、これまでの授業でどんなことをしたのかを学生が説明してくれる。このとき、説明している学生さんたちが、とても楽しそうなのが印象に残った。単なる講義ではなく、話し合ったり、身体を動かしたり、共同で作業をしたりといった形で、さまざまな工夫がされているようだ。

このあと、佐藤直樹さんが登場し、デザインの仕事に関わるまでの話をする。佐藤直樹さんの話を聞いてからテーブルごとに話あうというパターンで、休憩をはさんでグループ替えをおこなって、これを2回繰り返した。話を聞くというだけでなく、テーブルでの話し合いが付け加わることによって、話の聞き方も変わってくるし、印象の残り方も変わる。同じ話を聞いて、他の人がどういうところに関心を持つかを知ることも面白い。テーブルによって違いはあったかもしれないが、学生さんもとても積極的に話をしてくれた。公開授業にしたことは、学生、外部の人それぞれにとって、良い効果がでているように思えた。

この授業は、短期集中でおこなわれているということ。それがとてもいいと思った。大学生くらいの年齢の場合、1年とか半年という単位よりも、2週間くらいに集中して授業したほうが、身になると常々思っていた。時間の感覚というのは、年によってほんとうに変わる。20歳前後というのは、どんどん吸収できる時期であり、また色々気が散るもののある時期でもある。一つのテーマについては、短期に集中して考え、習得していったほうが効率がよいと思うのだ。教育の場合、年齢の差が大きくあるのに、年齢によって時間の捉え方が異なるという面にあまり注意が払われていないような気がする。海外の大学では、短期の講座はあるわけだし、日本の大学も、もっと柔軟性があったほうがよいと思う。ここで、その実例を見ることができてよかった。

佐藤直樹さんの話とともに、授業の進め方も興味深く、学祭とかではなく、普通のときの他大学に入って、学生さんと話す機会などあまりないので、この授業に参加してよかったと思っている。

仕事を通じて成長する

ゆとり世代とかいう人もいるけれど、ぼくは今の若い世代には好感を持っている。やさしく、礼儀正しい人が多いと感じている。少なくとも、自分たちの頃よりも、いい子が多いと思う。逆に、困ったなと思うのは、現役を引退したくらいの男性に多い。もちろん、この世代の人も、大半は悪い人ではないのだが、駅やお店などで言い争いをしている人を見かけると、この世代のことが多いように感じる。

特定の世代に対して善し悪しを言うことには、あまり意味があることとは思わない。これは想像でしかないのだけれど、会社である程度、偉いと言われるような地位になって引退し、その地位の人間として扱われることに慣れてしまっているのに、日常生活のなかでは、特別に偉い人とは思われない。すると、なんで自分がこんな扱いをされなければならないのかという考え方になってしまい、ちょっとしたことで、諍いを起こすということになるのではないか。世代の問題ではなく、誰にでも起こることのように思う。

人は、仕事をすることによって、さまざまな経験をする。そうした経験を通じて、業務に関わることだけでなく、人間的にも成長したいと思う。しかし、仕事を続けて行き着いた結果が、嫌な人になっていたとしたら、それはあまりに悲しすぎる。

なかなかむずかしいことではあるのだけど、普段から、仕事を通じて人間的に成長できるように、心がけていたいと思う。いろいろな立場の人の気持ちを理解できるようになったり、困難な状況を克服する経験を重ねることで、さまざまな状況に余裕をもって対応できるようになれればと思う。いろんな状況があるから、本当にむずかしいことではあるんだけど。

2012年,音楽関連の関心リスト

毎年恒例の音楽関係の今年の関心リストですが、
今年始めての投稿というのは、なんとも……。

『The O.C.』

今年は、Foxテレビで見た『The O.C.』の音楽がよかった。
サウンドトラックはいい曲ばかり。
『The O.C.』サウンドトラック

なかでも、一番のお気に入りは、
Alexi Murdoch『Orange Sky』[YouTube→]
今年一番聴いた曲だと思う。

Philip Philips

『American Idle』のPhilip Philipsも、
ヒットチャートに上がってきている。
American Idol Season 11 Highlights

Phillip Phillips『World from the Side of the Moon』
Phillip Phillips『World from the Side of the Moon』
Phillip Phillips『Home』[YouTube→]

『坂道のアポロン』

ジャズをテーマにしたアニメ&マンガ『坂道のアポロン』は、
サントラもよかった。
演奏にあわせて作画されたアニメーションは
素晴らしかったし、
アニメとマンガの違う部分も、
それぞれに楽しむことができた。
サウンドトラックのドラムは芸大の学生らしいけど、
今後が楽しみ。
『坂道のアポロン』

『坂道のアポロン』[YouTube→]

ついでに、ドラマとしては、『シャーロック』[YouTube→]
レベルが高く、しかも現代的にアレンジされていた。
昔、ホームズは好きだったので、楽しめた。

Pomplamoose

音楽的に好きだったのは、Pomplamoose。
PVも楽しいし、スタジオの感じとか、
手作り感がいいなあと思う。
Hey It’s Pomplamoose – Theme Song

Nataly Dawnのソロもいい感じ。
Nataly Dawn『Dance』[YouTube→]

木村カエラ

木村カエラは相変わらず、
適度に音楽的なチャレンジをしつつ、
バランスがいい。
木村カエラ『Sun shower』[YouTube→]
木村カエラ『Sync』

カバー作品 Macy GrayとNora Jones

今年はカバーが多かったけど、なかでも強烈だったのは、
Macy Grayの『Talking Book』。
Macy Gray『Superstition』[YouTube→]
Macy Gray『Talking Book』

Nora Jonesは、オリジナルアルバムは
ちょっと方向性が変わってきてしまったけど、
カバーは面白かった。
Nora Jones『カヴァーズ~私のお気に入り』

Vintage Trouble

アメリカ版BAWDIESという感じだったのが
Vintage Trouble『The Bomb Shelter Sesseions』
Vintage Trouble『Blues Hand Me Down』[YouTube→]
Vintage Trouble『The Bomb Shelter Sesseions』

Third Coast Kings

ブラスの使い方がかっこ良かった
Third Coast Kings『Third Coast Kings』
Third Coast Kings『Give Me Your Love』[YouTube→]
Third Coast Kings『Third Coast Kings』

Gotye and Kimbra

こういう曲が大ヒットする土壌は、
今の日本にはないと思う。
Gotyeより、American IdeleでのPhilipのカバーのほうが好きなのだけど.
Gotye feat.Kimbra『Somebody That I Used To Know』[YouTube→]
Gotye『Making Mirrors』

Kimbraのソロも面白かった。
Kimbra『Settle Down』[YouTube→]
Kimbra『Vows』

Rachel Sermanni

静けさを感じるPVも素敵。
Rachel Sermanni『Waltz』[YouTube→]
Rachel Sermanni『Black Currents』
rachel Sermanni『Black Currents』

Jamine Kara

こちらもブラスが強力。
Jamine Kara『Blues Ain’t Nothing But A Good Woman Gone Bad』
Jasmine Kara『In The Basement』[YouTube→]
Jamine Kara『Blues Ain't Nothing But A Good Woman Gone Bad』

Clairy Browne & The Bangin’ Rockette

Clairy Browne & The Bangin’ Rockette『Baby Caught The Bus』
Clairy Browne & The Bangin’ Rackettes『Love Letter』[YouTube→]

The Ting Tings

Foxテレビに洗脳されたのか、
The Ting Tings『Hang It Up』
結構好き。
The Ting Tings『Hang It Up』[YouTube→]
The Ting Tings『Sounds from Nowheresville』

Fiona Apple

ひさしぶりに名前を聞いたけど、アイディアを感じた
Fiona Apple『Idler Wheel』
Fiona Apple『Anything We Want』[YouTube→]
Fiona Apple『Idler Wheel』

その他

興味のあったものを列挙。
The Bamboos『Typhoon』

Ed Sheeran『The A Team』

Django Dajngo『Default』

忘れていたものを追記。

Mindy Gledhill

素朴でポップ。ありそうでなかった感じ。
ジャケットも素敵。
Mindy Gledhill『Anchor』
Mindy Gledhill『California』[YouTube→]

大西由希子

ビジュアルと演奏と最後のほうにでてくる話し方のギャップがかなり衝撃的。
[YouTube→]

Steve Gardner

江古田のギャラリー古藤で見たSteve Gardnerさん。
基本はブルースなんだけど、
とても明るくて、楽しい。
パーティでの話もとても楽しかった。
機会があれば、またぜひ見たい。
CDもいい出来。
Steve Gardnerさんのサイト

今年の関心リスト

毎年恒例の今年の関心リスト。

音楽的に、今年の一番はSweet Jazz Trioで間違いない。
ライブもアルバムも、柔らかなコルネットの音が最高だった。
ライブは、2011年11月29日(火) 六本木 Sweet Basil
アルバムは『Standard Collection Vol.4 Sweet Ballads』

Sweet Jazz Trio『Standard Collection Vol.4 Sweet Ballads』

http://www.spiceoflife.co.jp/


おなじくライブにいったG.Loveは、
ライブ、アルバムとも、今までのなかで最高とはいえないものの、
最近のなかでは良い出来という感じ。
ライブは、2011年11月04日(金) 恵比寿Liqud Room
セットリスト
アルバムは『Fixin’ To Die』

G.Love『Fixin' To Die』

http://www.subwaysessions.com/category/sessions/g-love/

G.Loveたちのsympathy for the devil。
この場にいたいなあと思ってしまう。


その他の洋楽では、
Wynton Marsalis & Eric Clapton『Play The Blues』
ディキシーランドジャズにしては、お行儀のいい感じだけど、
クラプトンが妙に懸命に弾いていて楽しい。DVD付きがおすすめ。
視線の会話が楽しめる。

Wynton Marsalis & Eric Clapton『Play The Blues』

Layla


元Fairground AtractionのMark Nevinは久しぶりの新作。
『Stand Beside Me in the Sun』
iPhoneで撮ったというPVが、温かくていい。
でも、まだアルバム買ってないや。買わなくちゃ。

Mark Nevin『Stand Beside Me in the Sun』

『I Know Where Ray Davies Lives』


旧作だけど、感動したのが、Alice Clark『Alice Clark』。
サウンドも素晴らしく、ベースラインを追っているだけで、
トリップしそう。

Alice Clark『Alice Clark』

『Don’t You Care 』


ウッドベース弾きながら歌うEsperanza Spalding。
しかも美しい。


ROSIE BROWN『SUNRAY』
ささやくようなヴォーカルが魅力的。


Gabby Young & Other Animals『ASK YOU A QUESTION』
バルカンビートぽい感じもして、PVも楽しい。
GAGAよりGabby Youngでしょう。


Karimouche『Ptit_Kawa』
PVといえば、シュヴァンクマイエルぽくて好きなのがこれ。


Le Corps Mince de Françoise の『GANDHI』


亡くなってしまったGil Scott-Heron “Me And The Devil”。
都市の闇の美しさを感じる。


Russian Redは力の抜けた普通さがいい。
ビジュアルもかわいい。
Cigarettes 独特のメロディーが魅力的

The Sun, The Trees

They don’t believe

カバーも素敵。
Girls just want to have fun

A Day in the Life


お正月に教えていただいたFreelance Whalesも
僕的にはかなりツボだった。


日本の曲では、
星野源『くだらないの中に』
今世紀の日本の唄のなかでNO.1だと思う。
歌詞が素晴らしい。

星野源『くだらないの中に』


indigo jam unit feat. Alicia Saldenha『ROSE』
日本のアルバムではダントツにこれ。
1曲目のスピード感は素晴らしい。
かっこいいよ。本当に。
発売時期に知らなくて、ライブを見逃したのは残念。

indigo jam unit feat. Alicia Saldenha『ROSE』

同じくindigo jam unit『INDEPENDENT』も相変わらずの緊張感ある音。

indigo jam unit『INDEPENDENT』


相変わらず質の高い木村カエラの『チョコレート』。
生唄のPVが魅力的。

木村カエラ『チョコレート』


CARAVAN『黄金の道』
テレビのサウンドトラックだけど、
パッケージが凝っていて楽しいアルバム。

CARAVAN『黄金の道』


J-waveのスタジオライブで聞いた
おおはた雄一『おだやかな暮らし』。
「欲しいものはおだやかな暮らし…」沁みる。

おおはた雄一『おだやかな暮らし』


moumoon『Chu Chu』
昨年に続いてのCMソング。
音楽好きの人が評価しているのをあまり見ないけど、
ポップで「いい仕事」という感じだと思うんだけどね。

moumoon『Chu Chu』


細野晴臣『HoSoNoVa』
Ustreamでのライブが、力が抜けていてよかった。

細野晴臣『HoSoNoVa』


Superfly『Beep!!/Sunshine Sunshine』
SuperflyのUstreamでのライブは素晴らしかった。
日本語ロックの一つの到達点を見たという気がした。

Superfly『Beep!!/Sunshine Sunshine』

Beep!!


Ustreamでは、七尾旅人のライブは何度か見たけど、
どれも即興性があって面白かった。

『いい事ばかりはありゃしない』七尾旅人+梅津和時


ユザーンはタブラもいいけど、ツイットが面白かった。
特に母関連。
大宮エリーのUst番組スナックエリー
ゲストで出たときも楽しかった。

U-zhaan インド滞在記 カルカッタなう。


YouTubeの『ぽっちゃりゴルバチョフ』が
リフレインが頭のなかでぐるぐるまわって面白かったんだけど、
映像がなくなってしまった。


もうひとつUstreamで、アーカイブの48分くらいからムッシュ登場。
「なんにもない、なんにもない」が沁みる。
沼澤尚氏のドラムもよく見えて、ドラム好きにはいい映像。


DVDで見た『キャデラック・レコード』。
登場人物がみな魅力的。音楽映画としても楽しめる。

『キャデラック・レコード』


楽器では相変わらずKORGが頑張っている。
Wave Drum Miniはセンサー付きなのがとてもいい。
iPhoneアプリのiKaossilatorも手軽に遊べる。

WAVEDRUM Mini U-zhaan × rei harakami Vol.1

WAVEDRUM Mini U-zhaan × rei harakami Vol.2

U-zhaan × rei harakami の
プロモーションヴィデオも楽しかったのだけど、
harakamiさんが亡くなられるとは。


今年は、『デザインの授業』の資料集めとしての
古本屋まわりが楽しかった。
都内でも、結構いろいろあるものだ。
杉浦康平氏の『全宇宙史』の版下を見せてもらったり。
やはり、足を動かさないといけない。


その他、購入したなかで面白かった本をデザイン関係で。

『Alex Steinweiss: The Inventor of the Modern Album Cover』
SPレコード実寸サイズの本。
それだけで面白い。

『Alex Steinweiss: The Inventor of the Modern Album Cover』


『Merz to Emigre and Beyond: Avant-Garde Magazine Design of the Twentieth Century』
『Merz』あたりの古い雑誌のデザインをかなりの頁数見せている。


『Merz to Emigre and Beyond: Avant-Garde Magazine Design of the Twentieth Century』


『Emigre No 70: The Look Back Celebrating 25 Years in Graphic Design Selections from Emigre Magazine』
あの大きさの感じは味わえないけれど、
デザイン的には、これで十分という感じの網羅感。


『Emigre No 70: The Look Back Celebrating 25 Years in Graphic Design Selections from Emigre Magazine』


『U&lc: influencing design & typography』
ハーブ・ルバリンの『U&lc』のデザイン集。

『U&lc: influencing design & typography』


この2冊は、よくこんなの出したなと思う。
おそらく尋常じゃない作業量だろう。

『デザインを知る世界の名著100』
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『デザインを知る世界の名著100』

『グラフィック・デザイン究極のリファレンス』
『グラフィック・デザイン究極のリファレンス』


雑誌『idea』2011年 05月号 特集:羽良多平吉
羽良多平吉氏のデザインをまとめて見ることができて、
改めて独自の感覚に感動する。

雑誌『idea』2011年 05月号 特集:羽良多平吉

雑誌『idea』2011年 11月号 特集:松田行正
ダイアグラムが素晴らしく面白い。世界去勢史なんて。
あらためて、『10+1』ってすごい。

雑誌『idea』2011年 11月号 特集:松田行正

WebSig1日学校2011

9月10日(土)に、
デジタルハリウッド大学八王子制作スタジオで開催された、
『WebSig1日学校2011』
昨年に引き続いて、デザイナークラスの算数の授業の先生役として参加した。

(昨年の様子)

昨年は、お話をいただいたときから、
すぐに、こんな話をしようというイメージができていたのだが、
今年は、まさか2年連続でお声がかかるとは思っていなかったので、
正直なところ、内容的にはかなり迷った。
どうしても、昨年の続きという内容になるのだけど、
はじめての方にも、
違和感なく理解できるようにしなければならないので。

「デザインは、形と色の問題じゃない」
というようなことが言われることが多くなってきていて、
でも、じゃあ、形と色の問題はだれが責任を持つのかといったら、
デザイナーしかいないのであって、
形と色のことをもう一度、しっかり考えようよ
ということがテーマで、
そのために、Webデザインだけでなく、
視覚的な表現の歴史を見ながら、
その流れのなかにWebデザインを位置づけてみる
ということも重要じゃないかというような流れを考えてみた。

授業のレジュメ(PDF A4)
授業のまとめ(PDF A3)

ときには、デザイナーのわがままも必要なんだよね。
未来を作るのは、いつでも作り手のわがままなんだから。
そのわがままを通すのは、コミュニケーションなんだけど。

教室

今年の教室は音楽室で、
演出的には、今回も、昨年と同様に、椅子を円形に並べて、
跳び箱やフラフープなどを配置して、
ジャンベを叩きながら授業をはじめた。
実のところ、今年は別の楽器にしようかと思い、
アイルランドのバウロンや、カホンも考えたのだが、
ビジュアル的な魅力と、音の楽しさ感を考えて、
昨年同様、ジャンベにしたのだった。
木をくりぬいてあるので、これが結構、重いんだけど。

授業

授業は、昨年も、熱心に聞いてもらえてはいたのだけど、
実のところ、昨年は目の前で一人だけ、寝ている人がいて、
これをなんとか起こそうと思ったりしたものだから、
そこからリズムを崩してしまったという面があったのだった。
話すということは、精神力なのだな。
(そこが自分は弱いのだ。)
今年は、ほんとうに熱心に、うなづきながら、
楽しそうに聞いていただいて、
話しやすく、うれしかった。
女性率も高くて、いい雰囲気だったし。
(もちろん、男性もいい方ばかりでしたよ。)

お昼は教室で、給食スタイル。
跳び箱に座って給食を食べるなんて、
もう経験できないことだろう。

ただ、このお話を受けた時には、
時間割を確認してなかったんだよね。
多摩センターで午前中の授業はつらかった。
午後の授業の時間は、職員室で昼寝をしてしまった。
職員室は2部屋あったのだけど、
なぜか手前ばかりがいっぱいで、奥はだれも使っていなかったので。
でもここのソファーが奥への傾斜が大きくて、
身体が挟まって、寝にくいんだよね。
寝させないためのソファー?

ソファー

今回はプロジェクタを使わなかったので、
フルアナログで授業をした。
パソコンを持っていっていなかった先生は、
ぼくだけじゃないかな。
パソコン持っていくくらいなら、
ジャンベを持っていくぜみたいな。

WebSig1日学校の魅力の一つに
古い小学校の跡というロケーションがあるのだけど、
今年は暑すぎて、見て回る余裕がなかったのが残念。

また、学校というのは、授業だけでなく、
その前後の時間でのコミュニケーションも重要だと思っている。
色々話しができて、とても楽しく、勉強にもなったのだけど、
ほかにも、話したいと思ってくれていた方も
いらっしゃったようなので、
もっと積極的に、自分から動くべきだったと反省している。
もともと、あまり社交的なほうではないので、
なかなか難しいのですけど。

今年は、Twitterなどで、
スタッフの人たちの動きもうかがえて、
こんなにミーティングしているのかと感心していた。
この情熱には本当に感動する。

ご来場くださったみなさん、そしてスタッフのみなさん
ほんとうにありがとうございました。
今年も昨年同様、とても楽しい1日を過ごすことができました。

技術評論社のサイトでの記事
みんなで“今”を“未来”を考えぬいた1日―WebSig1日学校2011開催