「デザイン」という言葉が、とてもややこしいことになっていると感じている。Wikipediaのデザインの項目を見ても、なんだかややこしい。
デザインを専門にしない人に、「デザインの仕事をしている」というと、「ファッションですか?それとも…」のような返答が返ってくることが多い。デザイン学科の多くは美術大学や造形系の学部のなかにある。「デザイン」という言葉は、一般のなかでの認識としては、造形的にものを作る部分に対して使われることが多いだろう。
ところが、デザインの専門家とされる人の多くは、それは「狭い意味でのデザイン」だと主張する。最終的な形態を決めるには、もちろんそれに付随する多くの事柄を検討する必要がある。社会のなかでの役割や経済性、環境への配慮、多くの人が使いやすく使えることなど、純粋に形を作る技術だけでは「デザイン」という行為はおこなえない。それは確かに正しい。
でも、それってデザインに限ったことだろうか。お花屋さんも、作家も、ミュージシャンも、弁護士や医者も、会社員でも、自分の技術だけで仕事をしているわけではない。意識的であれ、無意識であれ、それをとりまく社会のなかでの位置づけを計算しながら仕事をしているし、それによって様々な問題を解決している。それは、デザインに限らず、当たり前のことだ。
「広義」がふくれあがってしまった背景には、デザインは設計だというような翻訳の問題としての面と、比喩的な使い方をしているうちに、比喩なのか意味を拡張しているのか曖昧になってきてしまっているようにも感じる。
言葉がコミュニケーションのツールだとすれば、できるだけ多くの人に理解できるような意味で用語を使用することが望ましい。どんな言葉にも、より深い意味を込めることは可能だが、この言葉には、実はもっと深い意味があるんだといって、密かに自分だけ頭がいい人のようなふりをしても意味はない。「広義」といって、一つの言葉に多くの意味を込めるのは、曖昧な思考の表れだといえる。コミュニケーションという面では、一つの言葉に曖昧に多くの意味を込めるより、それぞれが意味することをより的確な表現で表した方がよいはずだ。
「デザイン」という言葉についていえば、一般の人の多くが「デザイン」という言葉を、専門家のいう「狭義のデザイン」の意味で使っているとしたら、できるだけ一般の人が認識している意味で使うのが好ましいと思う。いわゆる「狭義のデザイン」と「広義のデザイン」の差の部分に関しては、「デザイン」という言葉に押し込めてしまうのではなく、一つひとつ言葉を割り当てて語るようにしていくべきだと思う。
現代のデザインにはコミュニケーションを設計するという部分がある。しかし、「広義のデザイン」という表現には、ユーザビリティもなければ、コミュニケーションの確実性を思いやる気持ちも感じられない。「広義のデザイン」という表現自体がデザイン性のない表現だ。「広義のデザイン」という言葉を使ったり、「デザイン」という言葉に多くの意味を込めてしまうのではなく、その差異の部分を、きちんと考えて言語化していくことは、デザインというものが社会のなかできちんと位置づけられ、認識されることにつながるだろう。そして、ここの部分を曖昧にせずにきちんと考えることには、デザイナー自身にとっても、とても大きなヒントになるはずだ。
追記
「抗議する」というほどのことでもないんですけどね。韻を踏んでみただけで。