洗練と解体の蛇行

GUのロゴの記事の気持ちはよくわかる。新国立美術館とか、ビックロのオープンの時とか、自分の感覚としては、とても気持ち悪いと思った。ある程度デザインを見ている人には、好き嫌いはともかくとして、ある種の違和感を感じるデザインではあると思う。

ただ、その違和感は、おそらくデザインにあまり関心のない人も、意識しないレベルで感じていて、それが広告的には「ひっかかり」となって作用している。それを意図的におこなっている。しかも、それで実績ができていて、仕事として成立させることができているので、商売としては(クライアントサイド、デザイナーサイドともに)、一つの正解と言える。ビジュアルデザインの文脈のなかでのクオリティはともかくとして、ビジュアルデザインの使い方としては、(現時点では)非常に高度といえる。そういう意味では、目的のために高度にコントロールされたデザインではある。ふと考えてみると、音楽の質が高いとはいえないとしても、音楽を使ったビジネスとしては大成功しているAKBも同様かもしれない。

幾何学的造形は「点」というものを考えてもわかるように、概念的なものだ。正確な(概念に非常に近い)幾何学的図形は、もともと自然界のなかでは異物感がある。自然に響く楽器音で作られた音楽のなかでサイン波の音を使うと、非常に強い異物感がある。サイン波でなくても、純粋なシンセ音は、かなり異物感のある存在になる。それを使う時に、異物感を目的とするのか、周囲の音に馴染ませるべきかという問題になる。円というもともと異物感のある存在に対して、それを人間の感覚に馴染ませるという繊細さも、異物感をそのまま活かすという手法も、理論的にいえば、どちらが正しいというわけではない。繊細に構築された世界に価値があるのと同様に、異物感を愛でるという方向性も存在する。

これはパンクなどとも共通するあり方で、
旧来の音楽家 「そんなにディストーションかけたら、ピッキングのニュアンスもわからないし、和音も濁るだろう。」
パンクロッカー 「そんなの関係ない」ジャーーーーン。グワーーン。
パンクファン 「おお、かっこいい!」
みたいな。

どんな世界も、洗練と解体を繰り返して、その振り幅のなかで蛇行することで進んで行く。多くの職人によって作られ、守られてきた「良い仕事」には価値があるのだが、当初「良い仕事」とされていたものは、長く続くにつれて様式化し、硬直したものになってしまうことがある。時には、プリミティブな、幼稚ともいえる手法でそれを破壊することも必要になることがある。その両者がバランスよく存在することが必要なのだと思う。