ミニマリズムをめぐって(2) 達磨が作る静かな世界

ミニマルデザインを語るなかで、「ZEN」が持ちだされることは少なくないのだが、そうすると話はもっとややこしくなる。禅そのものについてはあまり詳しくなく、禅宗周りの文化のなかから生まれた美術的表現を見るのみなのだが、禅宗は「人間の意志によるコントロール」を重視しているように見える。少なくとも、悪人でも大丈夫だという親鸞などに比べればはるかに。雪舟が描いた国宝「恵可断臂図(えかだんぴず)」は、「人間の強い意志」に満ち溢れたエピソードを描いたものだ。中国禅宗の祖とされる達磨は、少林寺で壁に向かって9年間坐禅を続けたという話がある。いわゆる達磨さんはここから来ているわけだが、一人の僧侶が達磨への弟子入りを許されないので、自分の腕を切って決意を示して弟子入りを許され、恵可という名をもらったという。これだけ聞いただけでも、あるがままに自然に生きようという気持ちは感じられない。「人間の強い意志」を感じざるを得ない。

「恵可断臂図」WikiPedia パブリックドメインの画像
「恵可断臂図」(京都国立博物館の解説)

強い意志によって自分自身をコントロールし、生物としての欲望を最小限にするということは、逆に、真理をつかむとか、宗教的・哲学的な欲望を最大限にするということでもあり、形を変えているとはいえ、それは別の意味での欲望だということができるのではないか。

禅宗文化がある一定の美意識をもっていたのは、その作品群からも明らかであり、そこから生まれてきたものは、人工的な装飾が少なく、抑制された印象がある。そういう意味では現在ミニマルデザインと呼ばれるものとの共通点をある程度は感じることができる。装飾的な表現をしなくても美的な価値を生み出すためには、全体としてのコントロールが重要になる。コントロールが完璧でなければ、作品としての価値は見えてこない。しかし、コントロールすればするほど、「すべてをコントロールしている作り手」の作為が感じられてくる。作者は神であり、独裁者でなければならなくなる。表現を抑制しようとしてコントロールすることからでてくるのは、実は作り手の強烈な自我であるように思うのだ。それは、アップル社の製品にも感じるところだ。

そう考えると、抑制した表現するということは、実はあまり控えめなことではないのではないかと疑ってみることもできるのではないか。一見、控えめに見えても、「人間の意志によるコントロールしたいという欲求」が最大限になった状態といえるのだ。控えめであるということは、なんて独善的なんだろう。達磨が座禅をして、「壁となって観ること」を求めたのは、そういう部分のジレンマからだったのだろうか。

すべてをコントロールしようという意図を持つと、その表現が最小限であっても、あるいはだからこそ、作り手の作為が際立ってしまうという例として、佐藤可士和氏のセブン-イレブンのコーヒーメーカーが話題(【デザイナー完全敗北】セブンカフェのコーヒーメーカーが残念と話題)になったことがあげられるかもしれない。

現在のミニマルデザインと呼ばれるデザインでは、コンテンツを活かすためにインターフェースデザインの装飾性を最小限にするというような方向性で語られるが、禅的な美意識との類似性という面から考えた時に、装飾を抑えて、シンプルな美しさを作るということの難しさに、あらためて考えこんでしまう。単に美術的な表現の問題ではなく、人が何か行動を起こすことの意味そのものを見直す必要すらでてきてしまうのだ。

禅に興味をもつ西洋人は、単なる異国情緒である場合もあるけれど、「すべてをコントロールしたい欲求」が強いことが多いように感じている。スティーブ・ジョブズなど特に。そもそもZENが海外で人気なのは、異国的でありながらも、理解可能な範囲だからなのではないか。人間の意志によるコントロールを重視するということは、システム的な思考として、西洋人にも理解しやすいのではないかと思うのだ。

海外の人のなかには、ZEN=日本文化のように思われることもあるが、もともと禅はインド起源、中国経由であり、日本の文化はどちらかというと「仕方ないよね」「なるようになる」みたいな諦観をもったもののほうが多いよう思う。人間がすべてをコントロールしようという考え方は、日本ではむしろ珍しい。禅宗の庭のデザインを見ていると、すべてをコントロールして抽象的な美しさを求める方向性と、借景のように自分のコントロールの及ばない自然、偶然に投げる方向性とがぶつかりあい、まじりあってきたように思う(借景庭園)。千利休は臨済宗の居士だが、千利休あたりの美意識というのは、茶室のように完全にコントロールできる小さい空間を求める一方で、前回見たように、偶然性へ投げることも行っていた。時代的な背景もあり、その微妙なバランスの一つの到達点だったのかもしれない。