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オリンピックのエンブレムはデザインワークのはじまり2015-8-27

オリンピックのエンブレム問題への色々な人の反応を見ていて、仕事としてデザインに関わっていない一般の人に、どこが理解されていないのかというのが、だんだん見えてきたような気がするので、それをまとめてみたいと思います。

「亀倉雄策氏のデザインを踏襲する」ということの制作体制面での背景

1964年のエンブレムを手がけた亀倉雄策氏は、後にインタビューで次のように語っていたのだそうです

当初、オリンピック委員会から、大会のデザイン顧問になってくれと依頼され、この時、2つの提案をした。

1)デザインは多数決ではなくて、デザインをトータルで考えられる人物を選ぶべき、デザイン評論家、勝見勝を推薦する
2)俺に大会自体のシンボルマークとポスターをつくらせろ(キーになる部分は一人の人がデザインするべき)

これには少し疑問があって、1964年のエンブレムもコンペが開かれていて、結果もきちんと残っているのですが、多くの人が語っている「亀倉雄策氏のデザインを踏襲する」ということには、デザイン面と制作体制の面があるように思われ、制作体制面での背景として、この2点は前提としてあるように思います。もう少し整理すると以下の2点ということになります。

前提
1)多数決で決めるのではなく、優秀な一人の人間にまかせるべき
2)あらゆるデザインをトータルに考える(デザイン思想としても、制作体制としても)

つまり、多数決で、その場の雰囲気で決められるような大衆迎合ではなく、普遍的な価値を求めること。大会を構成するビジュアル要素のそれぞれが、「ちょっとカッコいいね」というようなものではなく、全体としてのデザインに通底する思想を感じさせるようなものを目指すこと。そして、それを実現させるためには、制作体制が重要であるということ(デザインする側の体制と判断する側の体制)、というのが「亀倉雄策氏のデザインを踏襲する」ということのなかに含まれているように思うのです。

実際、会場の各スポーツのアイコン化は東京大会ではじめての試みられたことで、その後の大会でも踏襲されているように、そのトータルに構築されたデザインは高く評価されることになりました。全体をトータルに考えるということが、デザインにとっては、非常に重要なことなのです。

エンブレムはデザインワークのはじまり

今回、エンブレムのコンペを行なったということは、それがオリンピック全体のデザイン基調を決めることになるわけです。となれば、全体のアートディレクションは、エンブレムの作家が中心となり、エンブレムの使用マニュアルはもちろんのこと、公式パンフレットやポスター、チケット、あるいは、会場のサイン計画といったものも、エンブレムのデザインをもとにして行われる予定だったはずです。そうでなければ、大会全体としてのビジュアル的な統一感を生み出すことができません。(現在、このような状況になってしまって、今後どうなるのかはわかりませんが)

エンブレムの著作権は組織委員会に譲渡されていますから、作者が200億円も儲かるなどというのは、まったくのデマですが、賞金は100万円だけというのも少しおかしくて、これらの業務の発注は、追って行われる予定だったと考えるのが普通だと思います。

エンブレムのコンペは、非常に限られた範囲で行われていましたが、これもここに原因があると考えられます。前提2)を考えれば、エンブレムだけができればよいのではなく、それを中心にトータルにデザインできることが重要なのです。クラウドソーシングでロゴを1点2万円とかで募集するのとは違うのです。確かに、ある程度見栄えのよいエンブレムだけを作るというのであれば、無制限に一般公募して、多数決で決めればよいかもしれません。エンブレムだけを見れば、仕上がりもそれなりに良く、最も文句が出にくいのかもしれません。

しかし、それで受かった人に、オリンピック全体のアートディレクションができるでしょうか。ある程度大きな仕事をまわした経験と、自分の思いを形にしてくれる制作組織をもっていなければこなすことができない、質と量の仕事になります。そして、そこにオリンピック全体を貫くようなデザイン的な思想を込めることができるでしょうか。それは、何万人応募したオーディションで受かった新人女優をヒロインにしてアイドル映画を撮るようなものです。それはそれなりの味わいがありますが、オリンピックのデザインで行なってよいことではないでしょう。このようなことを考慮すれば、どのあたりで線を引くかはともかくとして、無制限の一般公募や多数決ですむ問題ではないことは理解できるのではないでしょうか。

今回の件で、デザインを仕事としていない人が誤解していることの中心は、オリンピックのエンブレムって、マークだよね、クラウドソーシングで1点2万円とかで募集しているのと同じだよね、という認識しかないという点だと思います。だから、誰でもできるでしょということになるのでしょう。実際、ちょっときれいというだけの、安易なデザイン案がネット上に発表されていたりします。デザインに関わっている人のなかにも、一般公募にすればよいという意見があって驚くのですが、重要なのは、「エンブレムを作ることは、それで仕事が終わりではなくて、むしろはじまりなのだ」ということです。オリンピックのビジュアル表現をトータルに考えて、全体として質の高いものにするためには、これはゆずれないことのはずです。それは、1964年大会のときに、まずはじめに亀倉雄策氏が主張したことでも明らかです。

以上のように考えると、亀倉雄策氏のデザインを賞賛しながら、一般公募にするべきといっている意見が多いことには、とても驚かされます。それはデザインに対する思想がまったく異なります。手続きの問題ではなくて、思想の問題です。

多数決で決めるデザインがよい場合もあれば、悪い場合もあること。デザインにとって、制作体制はとても重要であり、制作体制の作り方はデザインに対する思想を表していることを亀倉雄策氏の言葉から学ぶべきだと思います。今回の制作体制の作り方は、結果的にうまくいかなかったといえるのでしょうけど、目指したものはなんとなく見えてきます。

業界の構造的問題

佐野氏をめぐる利権構造といった図が出回っていましたが、これもかなり疑問です。あのように図解されると、信じてしまう人が多いのでしょうけれど、今回のコンペは、参加者の条件がかなり厳しく絞られているので、もし仮に佐野氏以外の人が当選していても、だいたい同じような図は書くことができたと思われます。真相はわかりませんが、そういったつながりだけで、利権で決められたと断言するには、根拠が薄いといえるでしょう。

とはいえ、今回のコンペ参加者の界隈というのが、ごく狭い人脈で独占されていて、しかも長い間、あまり代わりのない人達で独占されているというのも、事実ではあるでしょう。長く続いた業界というのは、どこもそういったことになります。利権といえども縁なわけで、多かれ少なかれ、誰もが縁によって仕事をいただいているわけではあります。ですが、それが過度に偏ってしまうと、業界としても淀んできてしまいますし、制作物のクオリティにも影響してくることにもなってしまうでしょう。個別の利権を揶揄するのは意味がないと思いますが、全体としてのこうした硬直した構造が、今回の問題の遠因となったのは確かなことのように思います。1964年大会の頃は、業界としてもまだ若く、活力があったのでしょうね。

それとともに、エンブレム、ロゴなんて、誰でも簡単に、あるいはクラウドソーシングとかで安く作れると、一般に認識されていることに対して、デザイナーの側でもきちんと発言していく必要があると思います。もちろん、安価に作ったものでかまわない場面もあるのだけれど、すべてそれだけですむわけではないのだということを理解してもらう必要はあるでしょう。

ちょっと方向は良くないけれど、デザインに関して、一般の人も関心をもったという意味では、いい機会ではあるのだと思います。今回、デザインそのものの良し悪しには一切触れずに、なぜ一般公募や多数決ではないのかについて書きました。こうしたやり方は、理想を高くもっていたゆえの選択だったと思います。しかし、理想が高いほど、失敗するときには大きく失敗するというものでもあるのですよね。デザインって、むずかしいのです。デザインする側にとっては、制作体制よりももっと重要なのは、デザインそのものの問題だと思います。時間がとれれば、それも書いてみたいと思っているのですけど、どうなるかな。

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