エンブレム騒動のデザイン的側面(4) 現代日本のゆるいスタイル

オリンピックエンブレムのチヒョルトに似ていると言われている当初の案と言われるものを見たときには、なるほどという感じがしました。今となっては、何が本当なのかはわからないのですが。当初の案と言われているものは、最終案にくらべて、完成度が低く、緊張感が感じられず、ゆるい感じがします。太田市美術館のマークなどにも共通する佐野氏らしい、ゆるい感じがあります。最終案は、佐野氏らしくない感じがありました。バランスが良すぎるんですね。とてもシャープです。素材はシンプルだけど、プロの仕事を感じさせる部分があります。

これは、悪く言っているわけではありません。ここ数年の日本のデザインは、こうした緊張感に欠けた、ゆるい感じのデザインというのが受けている印象があります。個別に指摘はしずらいですが、書店とかで一回り見てもらえば、ああ、こういうのかなというのが、数点は見つかると思います。太田市美術館のマークはかなり典型的な例のように思います。近寄りがたい美しさの美人よりも、ちょっと隙のある、かわいい感じの女性のほうがモテるというようなところでしょうか。きっちりと整ったデザインよりも、ゆるさのあるデザインのほうが、ひっかかりがあって売れるというように言われることも少なくありません。計算してゆるくしているのか、天然なのか、実際にそういうタイプのデザイナーが売れている印象はあります。

そういう意味で、今ぽいゆるさのあるデザインとして、当初の佐野氏の案が選ばれたのかと思うと納得できそうではあるのですが、それなら、ほかのデザインとのかぶりがあったとはいえ、あそこまでシャープにブラッシュアップしたのはなぜなんだろうという疑問は残ります。また、このようなゆるいデザインが世界的な傾向であるとはいえず、オリンピックのエンブレムとしては、シャープさが必要だったのでしょうか。

佐野氏には現代のデザインの潮流を感じる感覚があったといえるでしょう。それはフラットデザイン的な部分と、日本独自のゆるいデザインの部分。そのなかでフラットデザイン的な部分は、1964年大会の亀倉雄策氏のデザインを引き継ぐものとして考えている組織委員会や選考委員の傾向と合致するものだったと考えられます。その共通点はこれまで見てきた通りで、チヒョルトに似たデザインも、その要素を持っています。

実際、この時期のチヒョルトのデザインもかなりゆるくて、佐野氏のデザインとの親和性があります。チヒョルトは、こうした傾向のデザインの前後には、古典的な美しいデザインをしていて、繊細でとても緻密なデザインですが、幾何学的な図形を使って、「これが新しい時代のデザインだ」と主張していた頃の、チヒョルトとしては一番有名な時期の作品は、実際のところあまり緊密なバランスがあるとはいえず、ゆるかったりします。それが、のちに古典的なデザインへ回帰していく原因でもあるのでしょうけど。

この時期のチヒョルトは、ロシア構成主義やバウハウスと並んで、デザインの基本です。図形の組み合わせから美しさを生み出すことができるという考えは、多くの人によって行われている定番の手法です。ニューオリンズのスタイルのピアノみたいなもので、これ以降のあらゆるデザイナーが、参照し、自分の作品を作るときの考え方の一部として取り入れているわけです。

チヒョルトのデザインを意識したかどうかはわかりませんが、もともとデザイン的に近い傾向があったというところだと思うのです。四角と三角を使って「T」を作ったら、子供が作ってもあのようになるし、おでんをならべてもああなるので、わざわざパクるとかする必要もないような必然的な結果として、近いものになるでしょう。デザイナーにとっては、ネタ元探してパクるほうが面倒くさいのです。

もし、チヒョルトが生きていたとしても、これをパクリとは言わないんじゃないでしょうか。性格面は、詳しくは知らないですけど。チヒョルト自身が、このような構成法を理論化しようとした人なわけです。理論化するということは、ほかの人でも再生産可能な思考方法にするということなんですよね。本を書いておいて、本の通りにしたらパクリだとはいえないですよね。

本来、ものの考え方というのは、そうして広がっていくものです。世の中に公表したものというのは、社会の共有の財産になりますし、それでこそ価値があります。そのために創作しているといってもよいでしょう。ところがそれだけでは作った人にメリットがないので、ある期間の利益を保証しましょうということで、著作権という考え方がでてきたわけなのに、いまでは、逆に作り手を守るものではなくなってきています。それは、「Stay With Me」の著作権問題などでも、現実化しています。

話がそれましたけど、元のデザインを直す必要性があるということになったときに、完成度の低さ、ゆるいという部分も問題になっていたのではないかと想像してしまいます。佐野氏はあくまで、現代的感覚としてこのデザインをしていたのだが、組織委員会の亀倉雄策氏のデザインを引き継ぐという考え方によって、かなりのディレクションが入り、亀倉雄策氏の著作を読んだというのも、応募の時ではなく、修正段階なのではないかと考えることもできるように思います。はじめの説明で話していた亀倉雄策氏のデザインを引き継ぐというのも、この段階ででてきたと考えると辻褄があいます。そのやりとりのなかで、あまり佐野氏らしくない、緊張感のあるデザインになっていったのかなと思うのです。もし、そうだとしたら、これをディレクションした人は、かなり腕があると思います。完成度という意味では、各段に上がっていますから。

この問題には、デザインの歴史がそのまま盛り込まれているように見えるのです。そして、1950〜60年代のデザイン状況と現在が、まるで折り紙の端と端を揃えるように、重なりあって見えてきます。ところが、この日本のゆるいデザイン志向をどう考えるかという部分は、なかなか手ごわいのです。

完成を求めず、未完成な状態を好むということは、昔からあったことです。これは美を求める態度としては、少し高度なものです。茶の湯の茶碗のように、ゆがみのような偶然性を尊ぶとか、神社や城を作るときに、わざと未完成の部分や、向きを逆にするようなことをして、統一性を崩すことで、完成することを避けるということが行われてきました。完成したものは、壊れていくしかないからです。方向性として、壊れていくのではなくて、まだ完成を目指す段階なのだという暗示をかけているわけです。しかし、そういうものも、意味的に未完成としていたとしても、視覚的な表現としては、それほどゆるいわけではありません。創作物としての緊張感を保っています。ゆるキャラやKawaiiなどとは少し違った意味での、現代日本のゆるさ志向は、とらえどころの難しい問題ですが、現象としては確実に存在していると感じています。

Cool Japanとかとは別に、デザインでも、音楽でも、これまでの海外に学ぼうという姿勢から、日本のなかで独自の価値観を創りだそう、あるいは日本のなかのもっと狭い範囲のなかで、独自の価値観を作ろうという感覚が強くなってきているように思います。それも、前記事で書いたような一つのスタイルです。以前、デザイン系図書の輸入をされている方と話したときにも、最近、海外に学ぶという意欲が薄れているのを感じると言われていました。それは、必ずしも悪いことではなくて、独特の文化を育てていくうえでは、必要な時期もあるようには思います。でも、今の状況は、あまり楽観できるようには思えません。人の表現は、周囲の環境と無関係にはありえません。社会の状況などと関わっています。今回の騒動の「ある空気」の生まれ方、煽られ方、そして対応の仕方などと、感性的にも内向きなってきていることをあわせて考えると、なにか危険な香りを感じてしまうところがあります。論理はいくらでも嘘をつける。でも感性は、なかなか嘘をつきづらいものです。だからこそ、感性的な変化には敏感でなくてはいけません。とくに、何かを作っている人間は。

日本には、どんな地方にも、それなりにいい職人がいて、そうした職人の仕事を生活の一部として眺めていました。専門家でなくても、あの人はいい職人だねということを認識できる人は少なくなかったことでしょう。だからこそ、これだけいい仕事が残って来たわけです。寺社建築などは、数百年の時間を越えて、これを作ってきた職人はいい仕事をしたと評価されてきました。もちろん、今もいい職人はたくさんいるでしょう。でも、見る方の力が、急激に落ちてきているのではないかと思うのです。今回のエンブレムへの、公募すればいいじゃん、というような意見もそういう部分があるように思いますし、デザイナーの側も、それに対応できるような基礎力が落ちている。もちろん、自分も含めて。そして、そこに危機感を感じている人は少なく、むしろそれでいいじゃんということになってきているように感じるのです。さまざまなジャンルにおいて、海外のクリエイティブとくらべても、今までにないくらいの、力の差をつけられてきているように感じてしまうのです。そして、それに気づくこともなく、Cool Japanとか言っている。

エンブレム問題の異常な状況は、はやく収束してほしいと思いますが、その背景には、デザインそのものや、現在のデザインをめぐる状況についての本質的な問題を数多く潜んでいると感じます。そういった部分について、冷静に考えてみることは意味のあることのように思います。(終わり)