少し前に、放送大学の特別講義として放送されていた建築の講義を見た。そこで印象的だったのは、講師の方が若い頃に、ル・コルビュジエの事務所を訪れたときの話だった。事務所にはコルビュジエのスケッチがあり、これはどこの建築なのかと尋ねると、特に決まっているわけではないということだったのだ。そこで講師が感じたのが、立地や使う人たちの事情などに先立って、建築の全体的な構想があるということ。建築史のなかでの位置づけとして、現代のあるべき建築の理想があり、そこから現実の制約に折り合いをつけていくという方向で作られていくということだった。
コルビュジエの設計したパリの救世軍宿泊施設
一方で、日本の大工さんの作る建築は、間取り図があり、施主とどんな風に住みたいのかを話せば、全体像は自然とできてくる。部分から考え始めて、全体が生まれてくるという考え方だ。コルビュジエの建築は、コルビュジエ自身の理想を具現化したものであり、建築の歴史のなかで重要な意味をもつ。でも、それが住む人にとって快適かどうかは、まだ別の話だ。日本の大工さんの建築は、もちろん、伝統と経験によって育てられてきたスタイルがあって実現しているものであり、全体を考えていないわけではなく、住む人にとっては快適かもしれない。全体から部分、部分から全体という2つの方向性は、どちらが優れているというものではなく、両方あっていいものだということだった。(ずいぶん前のことなので、ぼくの記憶が補ってしまっている部分もあるかもしれない。)
全体から部分、部分から全体というのは、構成的に作り上げられるものすべてにあてはまることだ。そして、その両者は、どちらかだけで成り立つものではなく、両方の視点が必要であることは確かだと思う。(コルビュジエにとっては、モデュロールのような考え方がその間を埋めるものとして存在していたのかもしれない。)しかし、どちらかというと、西洋的な価値観としては、全体的な構成を優先する発想が強かったように思う。人間の思考によって、矛盾なく構成させることが、よい作品の条件のように思われることが多かったのではないか。それは西洋の都市計画にもあらわれている。
デザインに関していえば、そもそもデザインという事自体が、西洋的な全体的な構成を優先する発想に大きく影響を受けているように思う。全体としての統一感、一貫性を重視する傾向がある。デザイナーや、デザインに関心をもっている人は、どこかにこうした指向性をもっているのではないか。ところが、今、日本のデザインのまわりで言われることは、どちらかというと、部分の重視、使いやすければいい、コストがかからなければいい、という主張が多いように思う。そうすると、どうしても考え方の差を埋めにくくなってしまう。
デザイナーの思考法のなかにも、部分から全体という思考の流れが必要になってくるし、最近、経営にデザイン思考をと言われているように、デザインに関わるビジネス側の人にも、全体から部分という思考が必要になってくるのではないかと思っている。両者が歩み寄り、両方向の考え方のバランスをとっていくことで、使いやすく、また現代的な価値のあるものを生み出すことが可能になると思うのだ。(この話、続きがある予定)