Adobeのサイトに、インタビュー記事が掲載されました & 情報の構造について

Adobeのサイトに、インタビュー記事が掲載されました。

「美大の先生に聞いてみよう!イマドキのデザイン教育(第二弾)〜佐藤好彦氏にきく〜」

いろいろなテーマを話せて、とても楽しいひとときでした。
なかで、インフォメーションアーキテクチャに関するあたり、
少し、補足しておいたほうがいいかなと思ったので、
補足してみます。

表現すべきことを階層構造で表現するといったときに、
どうしても複雑化してしまうということが多いのです。
情報を提供する側は、その全体像が見えているので、
全体像を正確に描こうとしてしまう傾向があります。

ところが、サイトに訪れるユーザーには、
実際のところ、全体像など、どうでもいいことの場合が多いのです。
自分が求めていることの回答さえ得られればよいわけです。
そこの格差をどう埋めるかというところが
むずかしい部分です。

インフォメーション・アーキテクチャ、
つまり、情報を建築をモデルとして捉えて、
構造を構築していくという考え方には限界もありますし、
ITにおける情報構造は、本来もっと柔軟で動的なものです。
そのためにハイパーテキストという概念が生まれたわけですし。

情報と情報の関係を、
もっと柔らかなものととらえて、
シンプルにしていくということが、
必要なのではと思っているのです。

建築をモデルにしたような情報の構造、
紙の上に描けるような構造
というものを超えたものはあるし、
だからといって複雑なわけじゃない。
本来、脳ってそういうものじゃないかな
と思ったりするわけです。

remの基準となる値を行の高さにする

remの基準となる値は、font-sizeよりも、line-heightのほうがいいのではと思って、ちょっと検索してみたけど見当たらなかったので、書いてみます。

グラフィックデザインの考え方としては、行の高さが縦方向のレイアウトの基準になります。例えば、小見出しは2行どりというように、行の高さを基準として考えるのです。これによって、段組のレイアウトをしても、行がずれることがありません。

行の高さはWebに当てはめるとline-heightになります。remはrootのemということで、文字の大きさの基準と考えることが多いわけですが、「htmlに指定したfont-sizeを基準として使える単位」と考えると、レイアウトの基準としていつでも使える値として設定したいのは、むしろline-heightなのではと思うわけです。

htmlのfont-sizeに、本文のフォントの大きさではなく、line-heightとして使いたい値を設定すると、例えば3行取りのスペースはシンプルに「3rem」で設定できます。2行取りの見出しは、line-heightを「2rem」にすればOK。

すべての縦方向のスペースを、行の高さを基準に、その整数倍で管理することができます。そして、段組を作ったときに、すべての段の行がきれいに揃います。ボーダーを使った場合には、微調整が必要になりますが。

以下のサンプルを見てみてください。
サンプル

写真を使ったデザインのトレーニング

2月14日に、宮崎県青島の青島神社儀式殿(能楽堂)で開かれた「青島デザインの学校vol.2 カタチを見る、仕組みを作る〜じつは身近な、いいデザインの仕組みとは?〜」でお話させていただきました。青島は鬼の洗濯板で有名な景勝地で、江ノ島のような感じでつながっている青島のなかは、なぜか生態系が違うようで、熱帯の植物が生い茂っていました。

青島

青島 鬼の洗濯板

青島

青島のなかにある青島神社の儀式殿が本土側にあり、ここが能楽堂なのです。能楽堂でセミナーを行える経験は貴重だと思うので、とても楽しみでした。能楽堂の下には、音を響かせるための壺があると聞いていたので、宮司さんに訪ねてみると、喜んで説明していただき、壺も見せていただきました。

青島神社 能楽堂

能楽堂の壺

せっかくの能楽堂ですから、何か音を出してみたいと思って、飛行機でもそれほど荷物にならないトラベルギターを持って行きました。機内持ち込みでもいけるかなと思ったのですが、混んでいるので預けてほしいとのことで、人が入れるほどの楽器用のケースに、小さなトラベルギターが入れられて、人間以上に丁重に運んでいただきました。これだったら、ちゃんとしたギターを持っていけばよかったと思ったり。まあ、チープな音も好きなんですけど。

海とトラベルギター

第1部のワークショップでは、写真を使ったワークショップを行いました。能楽堂という環境は素晴らしいのですが、作業するには不向きなので、企画はかなりむずかしいのです。この企画はこのようなものでした。

絵画なども含めて、視覚的構成の基本として、
オブジェクトを幾何学的に捉えるという考え方があります。
聖母子像の人物が三角形になっているというような。

対象そのものはなんでもよく、
それがどういう配置になっているかを、
幾何学的に構成して写真を撮影します。

等間隔に並ぶもの、
一直線に揃えられているもの
三角形になっているものなど。
それをほかの人に見せて、
どういう考えで構成して撮影したのかを
推理してもらいます。

『デザインの教室』では、
オブジェクトの配置に意味を持たせること
それが他の人に伝わるということを解説していますが、
これを写真の構図によってトレーニングします。

モノの見せ方を幾何学的に構成するトレーニングであり、
それがどのように伝わるかを確認する作業でもあり、
デザインの意図を読み取るトレーニングでもあります。
また、フォトディレクション面でのトレーニングにもなります。

これは、以前、書籍の企画を考えているときに浮かんでいたアイディアなのですが、写真を撮るには良い環境でもあるので、今回、実現させていただきました。

撮影に先立って、現代のデザインのなかでの幾何学的な造形の重要性や、ロトチェンコの写真を例にして、幾何学的な面白さを写真として切り取ることの意義とデザインとの関係をお話ししました。

結果的に、日本有数の景勝地で、観光地ぽくない写真を撮ることを要求してしまったのですが、参加者のみなさんの視点はとても面白く、楽しく作品を見ることができました。あくまで、造形的なトレーニングなので、写真としてのクオリティを求めていたわけではないのですが、予想以上の出来栄えに驚かされました。

参加された方々の写真

デザインの練習は、やはりデザインすることでしか行えないのですが、幾何学的な造形を練習するといっても、自分でデザインをして、それを客観的に見直すということを繰り返すのは、なかなか大変です。ところが、写真であれば、手軽に色々な組み合わせやバリエーションを試すことができて、それを客観的に見直すこともできます。トライして確認するというサイクルを、時間的にも極めて短く、数多く行うことができるのです。

そして、写真を撮ることは、モノを見ることにもつながります。日常的に、何気なくモノを見る時に、デザイン的な視点をもつことができるようになると、デザインに関する感受性が飛躍的に高まります。

今回、街とデザインの関わりを考えなおすことがテーマでもありましたので、観光地的ではない、街のなにげない部分の面白さに目を向けたことも、意義のあることなのではないかと思っています。

今回、この形のワークショップは、かなり面白いという感触を得ることができました。また機会があれば、やってみたいという気持ちはありますので、ご希望がありましたら、お気軽にお声がけください。ワークショップという形でなくても、内容的にはだれでも手軽にできることなので、デザインのトレーニングとして、個人やグループで試してみるのもよいかもしれません。

Adobe Animateに愛をこめて

今回、Flashが「Adobe Animate」という名称になって登場したのを機会に、HTML5書き出しまわりを見てみました。

HTML5で動くということが強調されていますが、実際にはFlashの時代からHTML5で動いていたので、フォントのアウトライン化やWebフォントの利用などをのぞけば、この部分に関しては、今のところそれほど違いは感じられません。Adobe Animateの書き出すjsファイルをFlashと比べて見てみると、webフォント関係の記述があるなど、若干の変更があるのですが、とりあえず、Flashの最終バージョンで作ったものは動いていて、製作上は問題のないレベルのように思います。

オブジェクトの管理を確認する

Adobe AnimateのCanvasモードでは、Create.JSを使っています。Create.JSについては、ネット上にもさまざまな情報があるので、それ自体はそれほど困ることはないのですが、そうした情報は、FlashやAdobe Animeteで動かすことを前提とはしていません。そこがFlashのHTML5書き出しの敷居を高くしてしまっていたのかもしれません。

Adobe Animeteでは、グラフィックパーツを描いたり、管理するということをスクリプトを書かなくてもおこなえて便利なのですが、GUIで作成したオブジェクトをスクリプトからどのように指定したら良いのかというところでつまづいてしまうと、ネットの情報なども活用することができないのです。

そんなときには、Adobe Animeteで、ムービークリップなどのグラフィックオブジェクトを配置してみて、ChromeのデベロッパーツールのWatchで、そのオブジェクトや、オブジェクトのプロパティを探していけば、オブジェクトの管理・指定の仕方が理解できると思います。当然ではありますが。

ムービークリップ自体を動かすときには、例えば「myMC」というMovieClipのインスタンスの場合は、ActionScriptと同様に「this.myMC.x」などで制御可能ですが、「myMC」のなかに、ベクター画像が一つだけあるという場合は、stage > children[0] > myMC > children[0] > graphics > _fill > styleとデベロッパーツールで掘っていくと、画像の色情報にたどりつけます。したがって、

stage.children[0].myMC.children[0].graphics._fill.style

という形で、色情報にアクセスできるわけです。ルートのタイムラインからの場合は、

this.myMC.children[0].graphics._fill.style

と書くこともできます。graphicsのあたりを見ていると、x, y, visible, rotation, scaleX, scaleY, skewX, skewYなどの、予想のつくプロパティが並んでいます。これらの値をデベロッパーツール上で変化させてみると、どのようなことが可能かが見えてくるでしょう。変更すべきプロパティの指定の仕方を理解すれば、事実上だいたいの表現は可能になります。

このあたりのことを、オフィシャルでわかりやすく情報を提供すれば、もっと手軽にAdobe Animateを使えるようになるのでは、と思うのですが。

雛形としてのコードスニペット

「ウィンドウ>コードスニペット」で、コードスニペットウィンドウを開くことができます。コードスニペットはダブルクリックするだけで、用意されたスクリプトを適用することができます。

コードスニペットは、数は多くないですが、コードのサンプルとして使えます。例えば、「連続回転」はオブジェクトをぐるっと回し続けることができます。これは、何かをし続ける場合に利用する「tick」の雛形として、ActionScriptのonEnterFrameと同じように利用することができます。「クリックしてオブジェクトを移動」などは、ボタンを使ったイベントの場合の雛形になるでしょう。Animateでのコーディングははじめてという場合には、コードスニペットを適用してみて、そのコードを確認するところから入るのがよいように思います。

今回の修正でわりと便利と思ったのが、HTMLパブリッシュのテンプレートを選べるようになったことです。ほかのライブラリを追加したい場合などにも活用できるかもしれません。

タイムラインのスタートは0にすべき

Adobe Animateの登場において、一番の問題点であり、がっかりしたところは、タイムラインがあいかわらず「1」から始まっていることです。Canvas書き出し時には、一番はじめのフレームは「0」になります。スクリプトでgotoAndStop(5)と記述すると4フレームに移動してしまいます。つまり、タイムラインで1と表示されているフレームは、本当は0なんです。

Adobe Animateのタイムライン

これに対して「警告:EaselJSのフレーム番号は1ではなく0から始まっています。これは gotoAndStop や gotoAndPlayなどのメソッドの呼び出しに影響します」という警告がパブリッシュするときにでます。これはFlashがHTML5書き出しをはじめてから、ずっとそうなのです。

確かに1を引くだけですから、慣れれば問題はないですけど、コンピュータのソフトなのに、人間のほうがあわせて、そのたびごとに計算するって、おかしくないですか。

これ、タイムラインの表示を0からにすればよいだけの話だと思うのです。内部的にはすでに0なんですから。プログラムの問題ではなく、画面デザインだけの問題なのに、なぜそれが何年もそのままになっていて、さらに今回HTML5書き出しを売りにしたAdobe Animateの登場においても、なお、直されないのでしょうか?これについて、改善すべきと意見する人は、他にいないのでしょうか。これは、制作サイドの姿勢の問題だと思うのです。まったく謎です。

Adobe Animateという名前になったからというわけではないですが、Flashの時代から、HTML5書き出しは、使い方によっては、かなり使えます。アニメーションをWebに載せる手法としても、簡単にビジュアル的なプログラムができる環境としても悪くありません。CreateJSで書く場合でも、ビジュアル素材を管理してくれるのはとても楽です。

現在、以前のFlash的なコンテンツが数多く必要とされているとは思いませんが、当時あった、自由な制作環境というのは、新しいコンテンツの可能性を拡げる意味でも、常に必要だと思います。ビジュアル的なアイディアをもっている人が、プログラムを活用しようと思ったときに、手軽に入れるツールというのが、今なくなってしまっているように思うのです。

しかし、そのための入門的な情報が少なすぎますし、タイムラインの問題からも感じられるように、入門者にも普及させようというやる気を感じません。Adobe Animateという形で、新しい名前で生まれ変わったのですから、ぜひ大切に育てていってほしいと思います。

ちょうど、Adobe Animateを使う仕事が進行中で、ノウハウを貯めているところでもあるので、Adobe Animate関係の情報発信もしていければと思います。

#私を構成する9枚

#私を構成する9枚をやってみた。

私を構成する9枚

Bruce Springsteen 『The River』
サウンドそのものに興味をもったはじめじゃないかな。このアルバムの空気感、リバーブ感が好き。

Billy Joel『52nd Street』
Billy Joelは必ず入るけど、アルバムは迷う。『Cold Spring Harbor』もすごく好きだし、ライブのベストだけど『Songs in the Attic』も捨てがたい。『Turnstiles』『Streetlife Serenade』も地味に見えて名曲揃いだし。でも、ジャズぽい曲への入り口として、これかな。

Joe Jackson『Night and Day』
偏屈であることと、変わり続けることを学びましたw。

Fairground Attraction『First of a Million Kisses』
やわらかなメロディと空気感。駄作が一つもない。メロディの美しさでは、一番好き。

Bill Evans and Jim Hall『Undercurrent』
唯一無二の瞬間。

G.Love and Special Saurce『Philadelphonic』
デビュー・アルバム『G.Love and Special Saurce』と迷うけど。

Bonnie Pink『evil and flowers』
一時期、学校の行き帰りにずっと聴いていた。トーレ・ヨハンソンのサウンドが染みる。

Caravan 『Trip in the music』
これも一時期ずっと聴いていた。とても大切な音楽だった時期がある。

はっぴいえんど『はっぴいえんど(ゆでめん)』
たぶん、説明不要。

私を構成する9枚 続き

次点、あるいは入れ忘れを9点。

Stéphane Grappelli『Stardust』
あ、これ入れ忘れちゃった。これはベスト9に入る。どれを抜こうか。困る。これをかけると、部屋の空気が変わる。

Beck『Odelay』
基本、やっぱりベックは好きなんだよ。アイディアと、まとまらない感じと、変わっていく感じ。

Oasis『Morning Glory』
まったり聴くには、Oasisなんだよな。根本的にこういうサウンドが一番好きなんだと思う。

The Allman Brothers『The Allman Brothers at Fillmore East』
スライド・ギターの音の流れをずっと追っていたい。欠かせない。

Ben Harper『Both Sides of the Gun』
近年、はまってる。ラフな感じの、雑味のある音の作り方が好き。

The Band『Northern Lights – Southern Cross(南十字星)』
『カフーツ』は3枚目に買ったLPだった。1枚選ぶとすれば、これか。

John Scofield『A Go Go』
ジャムバンド的なサウンドの入り口として、いつ聴いても新鮮。

John Coltrane『Giant Steps』
音の幾何学として。

Dr.John『Gumbo』
ニューオリンズサウンドの入り口として。

Stones、Dylan、Clapton、Lou Reedはアルバムを選べなくて。
意外にも、ブルーノートのアルバムがない。
デザイン編もやってみたい。

2015年の関心リスト

毎年恒例の、今年の関心リスト。おもに音楽。
今年の音楽の話題といえば、ストリーミング。Apple Musicがはじまって、手軽にいろいろな音楽を聴くことができるようになった。今までの新しい音楽を求めていた欲求というのは何だったんだろう。Apple Musicがはじまってから、一枚もCDを買っていないし。所有する欲求はなくなった感じ。

旧作でよく聞いたのは、Allman Brothers、Derek Tracks、Stevie Ray Vaughan、CCR、Lynyrd Skynyrdの「FreeBird」あたり、Medeski Martin & Wood、Soulive、Oz Noy、John Scofieldといったジャムバンド界隈、Robert Glasper界隈、Lonnie Smith、特に「Spinning Wheel」、Lou ReedとThe Velvet Undergroundといったあたりか。

自分のなかで、今年の一番の曲はこれかなと思っていたりする。藤原さくら「Walking on the clouds」

来年発売だけど、METAFIVE「Don’t Move」。幸宏関連作品のなかでは至上No.1だと思う。メロディは幸宏節だけど。

ベックのグラミーをとった『Morning Phase』は、はじめは物足りなかったんだけど、時間がたってから、よく聴くようになった。じっくり聴くとはまっていく感じ。「Dreams」は『Morning Phase』の反動のような、変態ベックの本領発揮という感じでうれしかった。

今年は、ギター女子というか、ブルース女子のパワーがすごかった。なかでも、好みとして一押しかなと思うのがDrop’s。「さらば青春」をラジオを聴いたときには、衝撃を受けた。PVを見ても、かっこいいんだな。

GLIM SPANKYもよかった。「大人になったら」もまったりとしていいし、特に、アルバムの「ひこうき雲」のカバーがとてもよかった。

GLIM SPANKY – M-ON! SESSIONS

Anlyは、J-Waveのライブで見て感動した。デビュー・シングルとかが、J-POP的なのでもったいないけれど、ライブはもっと、はるかにいい。デビューライブのダイジェストがアップされていた。このデビューライブもライブで見てよかった。

Anly Debut Live『太陽に笑え』@Shibuya eggman

海外ではこんなのもいい。
DELTA DEEP「Bang The Lid」

今年ではないけど、矢野絢子「人生よ上等だ」もいい感じ。ライブで聴きたい感じ。

赤い公園「KOIKI」もラジオで聴いて、一瞬で惹かれた。

CMの曲だけど、ハーゲンダッツのCM、スタンダードぽい曲でよかった。

毎年、やっぱり入れてしまうPomplamoose、Nataly Dawn「My Friends」

クインシープロデュースというZAZ『PARIS SERA TOUJOURS PARIS』もよかった。

その他、思いつく限り。

LunchMoney Lewis「Bills」POPなサウンドで楽しい。

Mark Ronson ft. Bruno Mars「Uptown Funk」これだけキャッチーなら大ヒットする。

Battles 「Ice Cream」 シンバルの位置!

Kendrick Lamar『To Pimp A Butterfly』 より「For Free?」このスピード感には圧倒される。

Reverend Peyton’s Big Damn Band「Raise A Little Hell」ワイルド!

Bob James & Nathan East『THE NEW COOL』

Brandon Coleman『Self Taught』より 「Never The Same」ひさしぶりにかっこいいシンセの使い方を聴いた感じ。

The Robert Grasper Trio『Covered』

Ben Williams『Coming of Age』より「Black Villain Music」

Kamasi Washington「The Epic」

Tok Tok Tok「Walk On The Wild Side」旧作だけど、少ない音数で世界を作っている。

今年は、ひさしぶりにシンセ界隈が面白かった。Roland Boutiqueシリーズや、ヤマハ refaceシリーズKorg iDS-10Korg iM1など。昨年の発売だけど、Korg Gadgetはとても楽器そのものを複数収録するというアイディアが面白い。

美術展系はあまり行けなかったのだけど、gggで開かれた「ラース・ミュラー: 本 アナログリアリティー」が、圧倒的によかった。

2014年の関心リスト
2013年の関心リスト
2012年の関心リスト
2011年の関心リスト
2010年の関心リスト
2009年の関心リスト
2008年の関心リスト
2007年の関心リスト
2006年の関心リスト
2005年の関心リスト
2004年の関心リスト

『ビジネス教養としてのデザイン』の考え方

『ビジネス教養としてのデザイン』が発売になって4ヶ月が過ぎました。はじめの段階では、あまり背景などを語るべきではないように思われたのですが、発行から少し時間がたってきたので、少々、執筆に関する考え方などを書いてみようと思います。

デザインの基本というときに、『ノンデザイナーズ・デザインブック』でも提唱されている「近接・整列・コントラスト・反復」の4つを原則とする考え方で説明されることが多いでしょう。これは確かにわかりやすい考え方ではあるのですが、デザイナーではない人を対象としたときに、もっとシンプルに還元することはできないかと考えました。

また、ビジネスパーソンということを考えたときに、それは情報の発信者であるということが重要です。職業的なデザイナーのように、ほかの人の伝えたいことをデザインするのではなく、自分自身が伝えたいことをデザインするということになります。つまり、より深いレベルで、情報そのものとの関わりが重要になります。

本書では、デザイン面では「揃える」ということに絞って、それを徹底して考えるという方法をとっています。上記の原則でいえば整列ということになるように見えるかもしれませんが、揃えるときには、すべてを揃えるわけではありません。「揃えるもの」と「揃えないもの」、「別の揃え方をするもの」があります。何がどういうレベルで揃えるべき情報なのかを考えなくてはなりません。何を揃えるべきか、何を揃えないべきか、情報を整理することが不可欠です。情報の発信者としては、まずここを考えることが必要です。

また、揃えるということは、位置だけではありません。色の場合には、色相とトーンという軸を使って、色そのものを揃えるのか、トーンを揃えるのか、色相を揃えるのかと考えることができます。文字の場合には、明朝・ゴシックという軸とファミリー(太さ)という軸を使って同様に考えることができます。そして、こうした表現を揃えることで、自然と反復が生まれてきます。そして、揃えるということと対比すること(コントラスト)は、表裏の関係にあります。つまり、「揃える」ということに集中して、何を揃えるのか、どう揃えるのかを徹底して考えていくことで、デザインを論理的に構成することができるようになり、情報の構造をデザインの構造として見せることができるようになります。覚えること、意識することを絞り込むことで、より徹底して考えることができるようにと考えました。

デザインには、いろいろな可能性があります。整ったデザインだけがデザインではないですが、ビジネス的な情報をわかりやすく伝えるということに限った場合には、かなり方向性を絞り込むことができます。「揃える」という極めて当たり前な原則を、徹底して考えていくことは、伝わりやすいデザインに近づくための、ひとつの有効な方法だと思います。

基本というのは、シンプルなほうがいいものですが、そのシンプルなことを徹底するのは、実はかなりむずかしいのです。例えば楽器を弾くときに、指の動きは必要最小限であることが望ましいです。ムダな動きは、指の動きを遅くするし、リズムの乱れにもつながります。ところが、この「指の動きを最小限にする」ということは、とてもむずかしい。不思議なことに、はじめのうちはムダな動きがあるほうが楽なのです。理屈で考えても当たり前なことなのに、その当たり前を実現するためには、常に意識することと、訓練を必要とします。

経験的に、このような基本部分を見直すような内容の本を書くと、初心者の方と上級者の方からの評判がよくなります。そして、初級を超えたあたりの中級者の方からは、当たり前のことだと言われる傾向にあるのが面白いところです。上級者の方は、一見当たり前のように見える基本の重要性、それを少し別の視点から見直すことの重要性を理解しているのではないかと思います。

本書はデザインの基本というものを、よりシンプルに構成しなおして、それをデザインにはあまりなじみのない人でも理解できるように、言葉として理解できるように表現するという試みとして執筆しました。各項目の見出しは、それぞれデザインするときのヒントとなるように、またシンプルな図解で、論理とイメージの両面で理解できるようにと考えて構成しました。

本書を執筆するうえでは、このようなことを考えていました。もし、関心がありましたら、見てみてください。

『ビジネス教養としてのデザイン』
『ビジネス教養としてのデザイン』Kindle版

エンブレム騒動のデザイン的側面(4) 現代日本のゆるいスタイル

オリンピックエンブレムのチヒョルトに似ていると言われている当初の案と言われるものを見たときには、なるほどという感じがしました。今となっては、何が本当なのかはわからないのですが。当初の案と言われているものは、最終案にくらべて、完成度が低く、緊張感が感じられず、ゆるい感じがします。太田市美術館のマークなどにも共通する佐野氏らしい、ゆるい感じがあります。最終案は、佐野氏らしくない感じがありました。バランスが良すぎるんですね。とてもシャープです。素材はシンプルだけど、プロの仕事を感じさせる部分があります。

これは、悪く言っているわけではありません。ここ数年の日本のデザインは、こうした緊張感に欠けた、ゆるい感じのデザインというのが受けている印象があります。個別に指摘はしずらいですが、書店とかで一回り見てもらえば、ああ、こういうのかなというのが、数点は見つかると思います。太田市美術館のマークはかなり典型的な例のように思います。近寄りがたい美しさの美人よりも、ちょっと隙のある、かわいい感じの女性のほうがモテるというようなところでしょうか。きっちりと整ったデザインよりも、ゆるさのあるデザインのほうが、ひっかかりがあって売れるというように言われることも少なくありません。計算してゆるくしているのか、天然なのか、実際にそういうタイプのデザイナーが売れている印象はあります。

そういう意味で、今ぽいゆるさのあるデザインとして、当初の佐野氏の案が選ばれたのかと思うと納得できそうではあるのですが、それなら、ほかのデザインとのかぶりがあったとはいえ、あそこまでシャープにブラッシュアップしたのはなぜなんだろうという疑問は残ります。また、このようなゆるいデザインが世界的な傾向であるとはいえず、オリンピックのエンブレムとしては、シャープさが必要だったのでしょうか。

佐野氏には現代のデザインの潮流を感じる感覚があったといえるでしょう。それはフラットデザイン的な部分と、日本独自のゆるいデザインの部分。そのなかでフラットデザイン的な部分は、1964年大会の亀倉雄策氏のデザインを引き継ぐものとして考えている組織委員会や選考委員の傾向と合致するものだったと考えられます。その共通点はこれまで見てきた通りで、チヒョルトに似たデザインも、その要素を持っています。

実際、この時期のチヒョルトのデザインもかなりゆるくて、佐野氏のデザインとの親和性があります。チヒョルトは、こうした傾向のデザインの前後には、古典的な美しいデザインをしていて、繊細でとても緻密なデザインですが、幾何学的な図形を使って、「これが新しい時代のデザインだ」と主張していた頃の、チヒョルトとしては一番有名な時期の作品は、実際のところあまり緊密なバランスがあるとはいえず、ゆるかったりします。それが、のちに古典的なデザインへ回帰していく原因でもあるのでしょうけど。

この時期のチヒョルトは、ロシア構成主義やバウハウスと並んで、デザインの基本です。図形の組み合わせから美しさを生み出すことができるという考えは、多くの人によって行われている定番の手法です。ニューオリンズのスタイルのピアノみたいなもので、これ以降のあらゆるデザイナーが、参照し、自分の作品を作るときの考え方の一部として取り入れているわけです。

チヒョルトのデザインを意識したかどうかはわかりませんが、もともとデザイン的に近い傾向があったというところだと思うのです。四角と三角を使って「T」を作ったら、子供が作ってもあのようになるし、おでんをならべてもああなるので、わざわざパクるとかする必要もないような必然的な結果として、近いものになるでしょう。デザイナーにとっては、ネタ元探してパクるほうが面倒くさいのです。

もし、チヒョルトが生きていたとしても、これをパクリとは言わないんじゃないでしょうか。性格面は、詳しくは知らないですけど。チヒョルト自身が、このような構成法を理論化しようとした人なわけです。理論化するということは、ほかの人でも再生産可能な思考方法にするということなんですよね。本を書いておいて、本の通りにしたらパクリだとはいえないですよね。

本来、ものの考え方というのは、そうして広がっていくものです。世の中に公表したものというのは、社会の共有の財産になりますし、それでこそ価値があります。そのために創作しているといってもよいでしょう。ところがそれだけでは作った人にメリットがないので、ある期間の利益を保証しましょうということで、著作権という考え方がでてきたわけなのに、いまでは、逆に作り手を守るものではなくなってきています。それは、「Stay With Me」の著作権問題などでも、現実化しています。

話がそれましたけど、元のデザインを直す必要性があるということになったときに、完成度の低さ、ゆるいという部分も問題になっていたのではないかと想像してしまいます。佐野氏はあくまで、現代的感覚としてこのデザインをしていたのだが、組織委員会の亀倉雄策氏のデザインを引き継ぐという考え方によって、かなりのディレクションが入り、亀倉雄策氏の著作を読んだというのも、応募の時ではなく、修正段階なのではないかと考えることもできるように思います。はじめの説明で話していた亀倉雄策氏のデザインを引き継ぐというのも、この段階ででてきたと考えると辻褄があいます。そのやりとりのなかで、あまり佐野氏らしくない、緊張感のあるデザインになっていったのかなと思うのです。もし、そうだとしたら、これをディレクションした人は、かなり腕があると思います。完成度という意味では、各段に上がっていますから。

この問題には、デザインの歴史がそのまま盛り込まれているように見えるのです。そして、1950〜60年代のデザイン状況と現在が、まるで折り紙の端と端を揃えるように、重なりあって見えてきます。ところが、この日本のゆるいデザイン志向をどう考えるかという部分は、なかなか手ごわいのです。

完成を求めず、未完成な状態を好むということは、昔からあったことです。これは美を求める態度としては、少し高度なものです。茶の湯の茶碗のように、ゆがみのような偶然性を尊ぶとか、神社や城を作るときに、わざと未完成の部分や、向きを逆にするようなことをして、統一性を崩すことで、完成することを避けるということが行われてきました。完成したものは、壊れていくしかないからです。方向性として、壊れていくのではなくて、まだ完成を目指す段階なのだという暗示をかけているわけです。しかし、そういうものも、意味的に未完成としていたとしても、視覚的な表現としては、それほどゆるいわけではありません。創作物としての緊張感を保っています。ゆるキャラやKawaiiなどとは少し違った意味での、現代日本のゆるさ志向は、とらえどころの難しい問題ですが、現象としては確実に存在していると感じています。

Cool Japanとかとは別に、デザインでも、音楽でも、これまでの海外に学ぼうという姿勢から、日本のなかで独自の価値観を創りだそう、あるいは日本のなかのもっと狭い範囲のなかで、独自の価値観を作ろうという感覚が強くなってきているように思います。それも、前記事で書いたような一つのスタイルです。以前、デザイン系図書の輸入をされている方と話したときにも、最近、海外に学ぶという意欲が薄れているのを感じると言われていました。それは、必ずしも悪いことではなくて、独特の文化を育てていくうえでは、必要な時期もあるようには思います。でも、今の状況は、あまり楽観できるようには思えません。人の表現は、周囲の環境と無関係にはありえません。社会の状況などと関わっています。今回の騒動の「ある空気」の生まれ方、煽られ方、そして対応の仕方などと、感性的にも内向きなってきていることをあわせて考えると、なにか危険な香りを感じてしまうところがあります。論理はいくらでも嘘をつける。でも感性は、なかなか嘘をつきづらいものです。だからこそ、感性的な変化には敏感でなくてはいけません。とくに、何かを作っている人間は。

日本には、どんな地方にも、それなりにいい職人がいて、そうした職人の仕事を生活の一部として眺めていました。専門家でなくても、あの人はいい職人だねということを認識できる人は少なくなかったことでしょう。だからこそ、これだけいい仕事が残って来たわけです。寺社建築などは、数百年の時間を越えて、これを作ってきた職人はいい仕事をしたと評価されてきました。もちろん、今もいい職人はたくさんいるでしょう。でも、見る方の力が、急激に落ちてきているのではないかと思うのです。今回のエンブレムへの、公募すればいいじゃん、というような意見もそういう部分があるように思いますし、デザイナーの側も、それに対応できるような基礎力が落ちている。もちろん、自分も含めて。そして、そこに危機感を感じている人は少なく、むしろそれでいいじゃんということになってきているように感じるのです。さまざまなジャンルにおいて、海外のクリエイティブとくらべても、今までにないくらいの、力の差をつけられてきているように感じてしまうのです。そして、それに気づくこともなく、Cool Japanとか言っている。

エンブレム問題の異常な状況は、はやく収束してほしいと思いますが、その背景には、デザインそのものや、現在のデザインをめぐる状況についての本質的な問題を数多く潜んでいると感じます。そういった部分について、冷静に考えてみることは意味のあることのように思います。(終わり)

エンブレム騒動のデザイン的側面(3) 模倣から様式が生まれる

表現において、なぜ前記事ような様式の変遷が生じるかというと、人はものをつくるときに必ず模倣するからでしょう。

デザインとして考えるとわかりにくいかもしれませんが、言葉を考えるとわかるのではないでしょうか。人は、ほとんどの場合、オリジナルな言葉など使いません。誰かが使っている言葉を組み合わせて表現しています。小説家でさえも、ほとんどの場合、自分で造語を作って表現しているわけではありません。

言葉というのは、とても影響を受けやすいものです。学生の小さなグループで、みんな同じような言葉づかいをしているということがあります。また、2ちゃんねるなどのコミュニティでも、同じような言葉遣いになっていくということがあります。芸術的な表現だけでなく、通常に日常会話というレベルでも、同じコミュニティのなかで、同じような言葉づかいが生まれてきます。そして、本人たちも気づかないうちに、一つの様式・スタイルが生まれます。デザインや音楽などの様式・スタイルもこのように、本人も意図しないような、自然な模倣行為から生まれてくるのです。

スタイルを真似るということは、表現の一つでもあります。音楽の場合、いろいろなスタイルを真似ることができる、あるいはだれ風に弾けるということは、一つのテクニックでもあります。ニューオリンズのプロフェッサー・ロングヘア風のピアノなどは、さまざまな人が弾いていますが、ほぼ丸ごと同じように弾いていても、パクリというよりは、ニューオリンズスタイルをイメージさせる一つの要素として使っているのだなと認識されます。そうしたスタイルを使い分けることは、表現の引き出しというように言われることもあります。ファンキーな曲にしたいから、ナイル・ロジャース風のギターを入れようとか、そういう風になるわけです。

Jon Cleary – History of New Orleans Piano

皮肉なことのように感じるかもしれませんが、本当にオリジナルな表現は、あるまとまりをもったスタイルとして登場します。たとえば、20世紀前半の最も先進的だった音楽であるジャズとほかの音楽を混ぜるということは、多くの人がいろいろなところで試みたことです。そのなかでも、ジャズとサンバをはじめとするブラジル音楽を混ぜるという試みのなかから、ボサノバが生まれてきます。

それは、2つの要素の混ぜあわせで、アイディアだけなら誰でも考えるかもしれませんが、それが一つの形として現れたときに、多くの追従者を生み、スタイルとして認識されるようになります。生み出されたのが1曲だけだったら、そこからオリジナリティを感じることもむずかしいのです。キュビズムの絵画が一枚だけだったら、ただの異質な絵としか見ることができません。あるまとまりになったときに、そこに文脈を感じるようになり、この作品はオリジナリティがあると言われるようになります。皮肉なことに、完全にオリジナルなものを評価することは難しいのです。

絵でも、デザインでも、音楽でも、スタイルとして認識できるような表現は、どれも模倣によって生まれてきています。逆に、そのスタイルを認識できないようであれば、表現者としては失格だということになります。

人は、歴史のなかで生きています。歴史的な、通時的な文脈と、同時代的な文脈のなかの交点に存在しています。過去のさまざまなスタイルを学んで参考にしたり、同時代に流行っているスタイルの文脈を感じることができなければ、デザイナーをはじめとして、なにかを作り出すことはできません。(続く)

エンブレム騒動のデザイン的側面(2) 創作表現の2つの方向性

人の創作表現を2つの方向性に分けるという考え方があります。表現主義的な傾向と構成主義的な傾向、思いっきりざっくりと言ってしまえば、縄文と弥生です。装飾が豊富で、感情をぶつけたような、表現主義的な傾向が縄文だとすれば、装飾が少なく、理知的で幾何学的、構成主義的なのが弥生です。これは日本だけのことではなく、ニーチェによるデュオニソスとアポロも近い考え方といえますし、抽象と感情移入という分け方をすることもあります。具体的な様式の割り当て方は、それぞれに少しずつ異なりますが。

音楽でいうと、比較的わかりやすいように思うのですが、感情表現を重視したサイケ、パンク、グランジ、フリージャズといった縄文系に対して、緻密に構成して冷静に演奏するAOR、テクノ、クール・ジャズ、ボサノヴァといった弥生系のスタイルの音楽を対比させると、感覚としてもわかりやすいのではないでしょうか。

先日、ご紹介した記事「『民主主義』が『デザイン』をダメにする」のなかで、佐藤卓氏が、構造と意匠という分類を語っています。この分類を上記の分類と関連して考えてみると、理解しやすいようにも思います。

例えば弥生式土器は、水を蓄えるという機能を表現した構造が、そのままデザインになっています。一方の縄文式土器は、水を蓄えるという機能の部分はあるものの、機能として以外の装飾・意匠がデザイン的に大きな特徴になっています。

19世紀までの公共建築は、壁面をほとんど装飾で埋めることが当然のように行われていました。ところが20世紀以降の代表的な建築には、ほとんどそのような装飾は見られません。鉄とコンクリートとガラスという、建物の構造を担う建材そのものが、視覚的なデザインとしての効果も担っています。バウハウスのマルセル・ブロイヤーのワシリーチェアのように、パイプのような高級ではない素材を使って、構造そのものの工夫によって美しいものを作れるという発想にもなってきます。

どんな創作物にも構造と意匠はありますが、そのどちらが印象的に見えるかということで、傾向が分かれると考えることができます。構造に力点を置くのか、意匠に置くのか、そのバランスとして捉えるということは、デザインをはじめてして、すべての創作物を考えるうえで、とても有効な視点であるように思います。

こうした2つの方向性は、共存しながらも、時代によって、どちらかが主流になってきました。1950年代から60年代というのは、デザイン的な傾向でいえば、弥生的な構成主義の時代のもっとも典型的といってもいいような時代です。スイスデザインが、インターナショナル・タイポグラフィック・スタイルとして世界に広まっていく時代でもあります。1964年大会のデザインは、こうした時期に作られました。当時唯一、横尾忠則さんが構成主義的ではないデザイナーだったと、本人が語っていたのを読んだ記憶があります。そして、現在のフラットデザインも、弥生的なデザインといえます。そして、ついでながらチヒョルトも。

ただ、ここで面白いのは、1964年のエンブレムは日の丸を意識させますが、亀倉雄策氏は太陽を意味していると考えていたということを聞いたことがあります。もちろん、日の丸も太陽をイメージしてますが、太陽そのものを表していると考えると、抽象度が下がってきます。それは、そのすぐあとの岡本太郎氏の太陽の塔を想起させますし、岡本氏が常に語っていたように、縄文的な感性へのつながりを感じさせてきます。そういう意味では、この考え方を引き継いだのが、長野の公式パンフレットにおける原研哉氏のデザインであると考えることができるかもしれません。

今回のオリンピックのデザインとして、1964年を引き継ぐということのなかには、単純にそのデザインを良しとするというだけでなく、世界のデザイン的傾向がフラットデザインが象徴するように、1964年の頃と同様に、構成主義的なデザインになってきているという、デザインの世界での認識があるように感じています。そして、チヒョルトに似ているといわれた表現が生まれたのも、こうした背景からすれば、無理のないことと考えることができます。同じ傾向をもった時代が、シンクロしているように感じます。

こういったデザインの傾向の変遷などは、普通の人は意識していないことでしょう。そんなことはどうでもいいと考えるかもしれません。でも、そういうことを意識していなくても、古いものを見せられると、なんとなく古臭いなというのは感じるものです。10年前の女性のファッションや髪型を見ると、普段あまり意識していない人でも、古臭く感じますし、使っていなかったスマートフォンをひさしぶりに立ち上げてみると、画面のデザインが、古臭い感じがしてしまったりします。デザインを職業としている人でなくても、実は意識しているのです。だからこそ、プロのデザイナーはそれを意図的に表現しようとするのです。

ただし、縄文的・弥生的という揺れは、単なる揺れではありません。ブランコのように元の位置に戻るのではなく、時代の変化という要素を加えて、螺旋を描いて変化していくことになります。進歩・発展という上昇過程にあった64年と、停滞・後退を感じさせる現在では、求められるデザインは大きく異なります。また、デザイン自体のバリエーションも、この間に大きく広がっています。(続く)