表現において、なぜ前記事ような様式の変遷が生じるかというと、人はものをつくるときに必ず模倣するからでしょう。
デザインとして考えるとわかりにくいかもしれませんが、言葉を考えるとわかるのではないでしょうか。人は、ほとんどの場合、オリジナルな言葉など使いません。誰かが使っている言葉を組み合わせて表現しています。小説家でさえも、ほとんどの場合、自分で造語を作って表現しているわけではありません。
言葉というのは、とても影響を受けやすいものです。学生の小さなグループで、みんな同じような言葉づかいをしているということがあります。また、2ちゃんねるなどのコミュニティでも、同じような言葉遣いになっていくということがあります。芸術的な表現だけでなく、通常に日常会話というレベルでも、同じコミュニティのなかで、同じような言葉づかいが生まれてきます。そして、本人たちも気づかないうちに、一つの様式・スタイルが生まれます。デザインや音楽などの様式・スタイルもこのように、本人も意図しないような、自然な模倣行為から生まれてくるのです。
スタイルを真似るということは、表現の一つでもあります。音楽の場合、いろいろなスタイルを真似ることができる、あるいはだれ風に弾けるということは、一つのテクニックでもあります。ニューオリンズのプロフェッサー・ロングヘア風のピアノなどは、さまざまな人が弾いていますが、ほぼ丸ごと同じように弾いていても、パクリというよりは、ニューオリンズスタイルをイメージさせる一つの要素として使っているのだなと認識されます。そうしたスタイルを使い分けることは、表現の引き出しというように言われることもあります。ファンキーな曲にしたいから、ナイル・ロジャース風のギターを入れようとか、そういう風になるわけです。
Jon Cleary – History of New Orleans Piano
皮肉なことのように感じるかもしれませんが、本当にオリジナルな表現は、あるまとまりをもったスタイルとして登場します。たとえば、20世紀前半の最も先進的だった音楽であるジャズとほかの音楽を混ぜるということは、多くの人がいろいろなところで試みたことです。そのなかでも、ジャズとサンバをはじめとするブラジル音楽を混ぜるという試みのなかから、ボサノバが生まれてきます。
それは、2つの要素の混ぜあわせで、アイディアだけなら誰でも考えるかもしれませんが、それが一つの形として現れたときに、多くの追従者を生み、スタイルとして認識されるようになります。生み出されたのが1曲だけだったら、そこからオリジナリティを感じることもむずかしいのです。キュビズムの絵画が一枚だけだったら、ただの異質な絵としか見ることができません。あるまとまりになったときに、そこに文脈を感じるようになり、この作品はオリジナリティがあると言われるようになります。皮肉なことに、完全にオリジナルなものを評価することは難しいのです。
絵でも、デザインでも、音楽でも、スタイルとして認識できるような表現は、どれも模倣によって生まれてきています。逆に、そのスタイルを認識できないようであれば、表現者としては失格だということになります。
人は、歴史のなかで生きています。歴史的な、通時的な文脈と、同時代的な文脈のなかの交点に存在しています。過去のさまざまなスタイルを学んで参考にしたり、同時代に流行っているスタイルの文脈を感じることができなければ、デザイナーをはじめとして、なにかを作り出すことはできません。(続く)
- エンブレム騒動のデザイン的側面(1) インターナショナルスタイルとしてのフラットデザインとその限界
- エンブレム騒動のデザイン的側面(2) 創作表現の2つの方向性
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- エンブレム騒動のデザイン的側面(4) 現代日本のゆるいスタイル