人の創作表現を2つの方向性に分けるという考え方があります。表現主義的な傾向と構成主義的な傾向、思いっきりざっくりと言ってしまえば、縄文と弥生です。装飾が豊富で、感情をぶつけたような、表現主義的な傾向が縄文だとすれば、装飾が少なく、理知的で幾何学的、構成主義的なのが弥生です。これは日本だけのことではなく、ニーチェによるデュオニソスとアポロも近い考え方といえますし、抽象と感情移入という分け方をすることもあります。具体的な様式の割り当て方は、それぞれに少しずつ異なりますが。
音楽でいうと、比較的わかりやすいように思うのですが、感情表現を重視したサイケ、パンク、グランジ、フリージャズといった縄文系に対して、緻密に構成して冷静に演奏するAOR、テクノ、クール・ジャズ、ボサノヴァといった弥生系のスタイルの音楽を対比させると、感覚としてもわかりやすいのではないでしょうか。
先日、ご紹介した記事「『民主主義』が『デザイン』をダメにする」のなかで、佐藤卓氏が、構造と意匠という分類を語っています。この分類を上記の分類と関連して考えてみると、理解しやすいようにも思います。
例えば弥生式土器は、水を蓄えるという機能を表現した構造が、そのままデザインになっています。一方の縄文式土器は、水を蓄えるという機能の部分はあるものの、機能として以外の装飾・意匠がデザイン的に大きな特徴になっています。
19世紀までの公共建築は、壁面をほとんど装飾で埋めることが当然のように行われていました。ところが20世紀以降の代表的な建築には、ほとんどそのような装飾は見られません。鉄とコンクリートとガラスという、建物の構造を担う建材そのものが、視覚的なデザインとしての効果も担っています。バウハウスのマルセル・ブロイヤーのワシリーチェアのように、パイプのような高級ではない素材を使って、構造そのものの工夫によって美しいものを作れるという発想にもなってきます。
どんな創作物にも構造と意匠はありますが、そのどちらが印象的に見えるかということで、傾向が分かれると考えることができます。構造に力点を置くのか、意匠に置くのか、そのバランスとして捉えるということは、デザインをはじめてして、すべての創作物を考えるうえで、とても有効な視点であるように思います。
こうした2つの方向性は、共存しながらも、時代によって、どちらかが主流になってきました。1950年代から60年代というのは、デザイン的な傾向でいえば、弥生的な構成主義の時代のもっとも典型的といってもいいような時代です。スイスデザインが、インターナショナル・タイポグラフィック・スタイルとして世界に広まっていく時代でもあります。1964年大会のデザインは、こうした時期に作られました。当時唯一、横尾忠則さんが構成主義的ではないデザイナーだったと、本人が語っていたのを読んだ記憶があります。そして、現在のフラットデザインも、弥生的なデザインといえます。そして、ついでながらチヒョルトも。
ただ、ここで面白いのは、1964年のエンブレムは日の丸を意識させますが、亀倉雄策氏は太陽を意味していると考えていたということを聞いたことがあります。もちろん、日の丸も太陽をイメージしてますが、太陽そのものを表していると考えると、抽象度が下がってきます。それは、そのすぐあとの岡本太郎氏の太陽の塔を想起させますし、岡本氏が常に語っていたように、縄文的な感性へのつながりを感じさせてきます。そういう意味では、この考え方を引き継いだのが、長野の公式パンフレットにおける原研哉氏のデザインであると考えることができるかもしれません。
今回のオリンピックのデザインとして、1964年を引き継ぐということのなかには、単純にそのデザインを良しとするというだけでなく、世界のデザイン的傾向がフラットデザインが象徴するように、1964年の頃と同様に、構成主義的なデザインになってきているという、デザインの世界での認識があるように感じています。そして、チヒョルトに似ているといわれた表現が生まれたのも、こうした背景からすれば、無理のないことと考えることができます。同じ傾向をもった時代が、シンクロしているように感じます。
こういったデザインの傾向の変遷などは、普通の人は意識していないことでしょう。そんなことはどうでもいいと考えるかもしれません。でも、そういうことを意識していなくても、古いものを見せられると、なんとなく古臭いなというのは感じるものです。10年前の女性のファッションや髪型を見ると、普段あまり意識していない人でも、古臭く感じますし、使っていなかったスマートフォンをひさしぶりに立ち上げてみると、画面のデザインが、古臭い感じがしてしまったりします。デザインを職業としている人でなくても、実は意識しているのです。だからこそ、プロのデザイナーはそれを意図的に表現しようとするのです。
ただし、縄文的・弥生的という揺れは、単なる揺れではありません。ブランコのように元の位置に戻るのではなく、時代の変化という要素を加えて、螺旋を描いて変化していくことになります。進歩・発展という上昇過程にあった64年と、停滞・後退を感じさせる現在では、求められるデザインは大きく異なります。また、デザイン自体のバリエーションも、この間に大きく広がっています。(続く)
- エンブレム騒動のデザイン的側面(1) インターナショナルスタイルとしてのフラットデザインとその限界
- エンブレム騒動のデザイン的側面(2) 創作表現の2つの方向性
- エンブレム騒動のデザイン的側面(3) 模倣から様式が生まれる
- エンブレム騒動のデザイン的側面(4) 現代日本のゆるいスタイル