新国立競技場のコンペから学ぶべきこと

新国立競技場のコンペは、設計期間も短かったようだし、ほとんどビジュアルだけで決めているようで、「設計」というレベルではなかったように感じてしまう。

参考:「新国立競技場は建てちゃダメです」戦後70年の日本が抱える”リフォーム”問題とは【東京2020】

本来、都市のモニュメントとなるべき建築というのは、歴史や環境、まわりの人の思いなどを調査したうえで、今後何10年あるいは100年といった単位での都市のあり方を考えて行われるはずで、ビジュアルとともに、環境面の影響や文化的な価値といった面も考慮する必要がある。そして、建築としての構造やサイズといった基本スペックと実現の可能性、そして予算内で実現できるかということは、どんなビジネスの提案においても、最も重要なポイントだ。にもかかわらず、今回は環境や文化的なことを考慮された形跡はあまりないどころか、建築として欠かすことのできない部分であるコストやサイズといったことすら、選考の根拠になっていなかったということは、驚愕してしまう。コストやサイズも当然、設計の一部であるはずだし、選考の根拠でもあるはずだ。今回のコンペは「設計」ではなくて、「夢のお絵かきコンテスト」でしかなかったといっていいんじゃないだろうか。

おそらく日本側で修正案を作ってそれで進めようとしているところを見ると、コンペで欲しかったのは、「著名な建築家の名前」と「コンペで選んだという事実」だけだったのだと思う。実施設計は日本側で行っているのだし。日本の設計会社が設計しましたというのでは箔がつかないので、コンペでイメージを提案してもらって、実際に形にする部分は設計会社のほうで進めるということのようにみえる。本来は、完成イメージとともに、都市のなかのでのあり方といった設計理念とその根拠、そして予算を含めて、総合的に判断すべきだったのだろう。そして、それができるだけの時間をかけるべきだった。

新国立競技場のコンペは、コンペというものの問題点を、非常によく見える形にしてくれている。本来必要だったのは、きちんと調査をして、問題点を明らかにし、ひとつずつ議論を重ねて問題点を解決しながら、最適な形に迫っていくという過程だったと思う。しかし、コンペにしてしまうと、そういった重要な過程が、コンペの参加者に委ねられてしまう。発注側と綿密なディスカッションを繰り返して進めるというわけにはいかなくなる。提案の段階で、外部から調べられることには限りがある。しかも、何分の1という確率でしか受注できないとなれば、提案の段階ではまだ身内として考えることはできないうえに、目立たなければコンペに勝てないので、相手のことを考えるよりもコンペで受かることを考えてしまいがちになる。そして、コンペで決まってしまったことによって、あやふやな根拠のうえになりたった形を崩すことができなくなってしまう。つまり、コンペにすることによって、使う人の立場になって、丁寧に調査と思考と議論を積み重ねていくとことができなくなってしまうのだ。

特に日本のように、合議制でだれも責任をとらない社会では、手続きを踏めばよい、複数のなかから選んだのだから最適だということにしてしまうことが多い。しかし、こういう場合というのは、誰一人、真剣にその問題に取り組んでいないし、誰一人、それを愛していない。作り手としても、空気を相手に仕事をしなければならないので、いいものなどできるはずはない。

実際のところ、こういうコンペは建築の世界でなくてもよくあることだ。単純な思いつきが作品の質を左右する分野であれば、コンペはとても有効な手段なのだけど、調査・思考・議論の積み重ねを必要とするものに関しては、よほど上手な運営方法と時間とコストをかけないと、うまくいかないものだということを、発注者が理解しておく必要がある。このような事例から、多くの人が学んでくれることを期待したい。