ミニマリズムをめぐって(1) 利休とポロック

『フラットデザインの基本ルール』のなかでも、ミニマルデザインについては、あまり詳しく触れなかった。デザインの分野で使われている「ミニマル」という言葉が、かなりあやふやに使われていて、それを詳しく説明していると、横道にそれすぎてしまうと思ったからだ。

最近、「Minimal design(ミニマル・デザイン)の考え方」というスライドで、千利休や禅などと対比させて解説されているのを見て、またそれが多くシェアされているのを見て、一般的にはこのような考え方が妥当と感じられるのだろうと思った。そういう意味では意義があると思う。でも、僕自身としては少々違和感を感じた。それは、『フラットデザインの基本ルール』でも書ききれなかった部分であり、かなりややこしく、でも、面白いところでもある。そろそろ、このパンドラの箱を開けてみる時なのかもしれないと思った。

千利休が求めた美は、華美ではなく、極限まで無駄を省いた美といわれることもあるようだが、それはどんなものだったのだろうか。ちょっといい加減なやり方ではあるけど、「千利休 茶碗」で検索してみると、利休が好んだと言われるような感じの茶碗の図版がでてくる。これらを見て、現代のいわゆるミニマムデザインの感じがするだろうか。極限まで無駄を省いた美という感じがするだろうか。むしろ、形が歪んでいたり、釉薬が流れていたりする。人の造作としての装飾は少ないかもしれない。しかし、自然の素材のもつ素材感がある。自然の偶然性が生み出す豊かな存在感がある。それは、実に豊かな表情をもっている。金属やガラスのようにつるんとしてはいないのだ。現代の視点から見てミニマリズム的ともいえる青磁のシンプルな器などもすでにあったのだから、利休が美意識として、現代のミニマリズム的な美を求めていたわけではないということはわかる。

「千利休 茶碗」で画像検索

「青磁」で画像検索

利休が求めた美を、現代の美術のなかに求めると、どちらかというと抽象表現主義に近いように感じる。例えば、ジャクソン・ポロックの絵は、アクション・ペインティングと言われるが、絵の具の落ちる場所や流れる道筋を100%コントロールすることなど不可能だ。釉薬が火の力によって溶け出して、思いもかけないような表情を作り出していくように、ポロックの絵の具の流れも半ば偶然性によって生み出される。ここには、いわゆるミニマルデザインというものに感じられる、抑制され、コントロールされた表現という印象はない。感情を直接ぶつけたような、いわゆるアクションの結果としての表現に加えて、自然の力、偶然性の力によって、人間の手による創作の限界を超えようという意図を感じてしまうのだ。

ポロックのアクション・ペインティング

「Jackson Pollock」で画像検索

では、人間の意志によるコントロールを否定しているのかというと、そうではないように思う。ポロックの絵を見ても、明らかに良い作品とそうでない作品がある。そこには、明らかに、人の意識による選択眼というものがある。ただ、すべてをコントロールして、再生産可能な装飾品を作るのではなく、唯一の瞬間によって生まれた一回性を貴重なものと考えたという意味でも、利休の一期一会と近い感性を感じてしまう。

一期一会

現代美術のなかでの位置づけとしては、感情的な表現に感じられる抽象表現主義は、理性的な表現のミニマリズムとは対局のように捉えられることが多いのではないだろうか。利休的な表現というのは、華美ではなく、抑制されている面もあるけれど、細部においては表現を抑えているわけではなく、現代のミニマリズムというよりは、むしろ抽象表現主義のほうに親和性を感じてしまうのだ。