理屈を超えた表現を

紀伊国屋ホールの神田山陽独演会にいく。
イタリアから帰ってきて、
パワーアップした山陽さんを期待していたが、
完全に期待を裏切られた。
さすがに、所々では笑わせてくれるが、
話が壮大な割に、退屈で眠くなる。
古くさい講談と遊民社の芝居のような展開。
BGMなんていらないのにと思った。
やりたいことは理解できるが、
それで話を引っ張っていくだけの
技術とパワーに欠けていた。
また、滑舌が命の講談なのに、噛むことが多く
明らかに調子が悪そうだった。

話自体からは感じる所はなかったが、
こうした話をしないではいられなかった
山陽さんの気持ちには、深く考えさせられる。

イタリアで、
その話は現代の社会にどんなメッセージを送っているのか、
というようなことを問われて、考えさせられたようだ。
西洋人の言語化欲求には、功罪があると思う。
そもそも言葉で明確にできるようなことなら、
ストレートにそれを語ればよいのだ。
ビジュアルやパフォーマンスにする必要はない。
言葉で語れることを超えたいからこそ、
そうした表現に携わっているはずだ。
青島幸男の
「努力しても無理矢理にでも軽く生きなくちゃいけない」
という言葉を、また思い出す。

デザインでも、すべてに意味がなくてはいけないとか、
意味があるから素晴らしいとかいう奴は多い。
それは、とても低いレベルの話であって、
一つひとつに意味がくっついているからって
デザインが素晴らしいわけがないじゃないか。
馬鹿者め。
(と、つい別の方向に気持ちがはいってしまった。)

表現を続けていく以上、悩むのは仕方がない。
でも、悩んだときこそ、基礎の技術に立ち返って、
シンプルに体を動かした方がいい。
内容的に悩んで、技術がおろそかになっては意味がない。
どんなジャンルでも、Artの基本は技術だ。
そして、また笑い飛ばせるパフォーマンスを見たいと
期待している。山陽さんの夢のある話は大好きなのだ。
どんな理屈よりも、笑いの方が強い。

帰りの新宿の街は、
クリスマスからお正月へ
一斉に切り替わっていくところで、
あちこちで、飾りをはずしていた。
クリスマスといっても、
忙しく働いている人はたくさんいる。