誰かが何かを感じてくれるかもしれないと思って形にする作業

放送大学の「芸術史と芸術論」を見た。戦争に関連する内容で、ピカソの「ゲルニカ」とユダヤ人としてのシャガールをとりあげていた。簡単にまとめてしまえば、現代の戦争の悲惨さ、残忍さを告発しているから素晴らしいというものだった。ちょっと、クラクラしてきた。それって芸術理論なのだろうか。(芸術史としては、現地取材もしてよくまとまっているので、すべてを否定するわけではない。)

そんなことをいったら、戦争を自分で体験した老人の言葉なんて、どれも価値ある話のはずだが、耳を傾ける人は多くない。美術でも、音楽、文学、映画などでも、何を語っているかで価値を決めるなどということはありえない。何を語っているかが重要なのだとしたら、すべての表現活動は、企画書1ページですむ。1行のコピーでいい。1冊の本を読む必要も、2時間かけて映画を見る必要もない。そのほうがむしろ明快で、だれにでも伝わる。でも、それでは伝わらないことがあるから表現する。いかに語るか、そこにこそ表現の素晴らしさがある。

デザインの場合も同様なのだけど、伝えるべきことがあって、そのためにデザインがあると考えがち。それが今、正論とされているように思う。でも、同じ内容でも、見ず知らずの他人から聞くのと、自分が信用している人から聞くのでは、受け止め方がまったく違う。知らない人から言われたことは3分後には忘れているかもしれないが、信頼している人から聞いた同じ言葉は、人生を左右することになるかもしれない。内容ではなく、伝え方のほうが重要であることは少なくない。むしろ、ほとんどの場合、伝え方のほうが重要であるといえるかもしれない。

美術でも、音楽でも、文学でも、デザインでも、「誰かが何かを感じてくれるかもしれないと思って形にする作業」は、内容よりも大切な、「享受する過程」というものを信じることのような気がしている。理論化するのはむずかしいけれど、深く考えるべきはその部分だと思う。