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コンペの功罪2015-9-1

前記事「オリンピックのエンブレムはデザインワークのはじまり」は多くの方に読んでいただきました。ご意見としては、共感していただいた方が多く、うれしく思いました。こういう時期に、こういう内容を書くべきなのかは、とても迷うことでもありましたので。一方で、長野大会や招致活動のときは一般公募したじゃないかというご意見もあったので、少し補足しておこうかなと思ったのですが、書いているうちに長くなってしまって、長い蛇足は蛇であるかもわからないような気もして、控えていたのですね。そうしたら、意外なことに、あっさり決着がついてしまったようで、誰かの役に立つかもしれないので、とりあえず公開してみようかなと思います。

コンペのパターン

コンペを制限をもうけない一般公募にするか、今回のように狭い範囲にするか、結果を広い範囲の多数決にするか、内部の狭い範囲での選考委員で決めるかには、以下のパターンが考えられます。

1)一般公募で多数決で決める
2)狭い範囲の応募者によるコンペで多数決で決める
3)一般公募して内部で決める
4)狭い範囲の応募者によるコンペで内部で決める

1の「一般公募で多数決で決める」は、どんなものがでてくるか、選ばれるかわからないし、オリンピック全体のコンセプトに合致するかどうかもわからないので、この方法は選びにくいでしょう。2の「狭い範囲の応募者によるコンペで多数決で決める」も、商標のチェックなどを、すべて事前に行うのか、決定した作品に問題が生じたときにどうするかなどを考えると、選びにくいといえます。ただ、昨今のネット上での動きを見ていると、多数決で決めておけば無難、誰も責任をとらなくていいし、というような時代が来てしまう可能性も否定はできないように思えてきてしまいます。

3の「一般公募して内部で決める」の場合は、まず統括するアートディレクターを指名で決めて、そのもとでコンペを行うというケースが多いと思います。エンブレムのデザインはアイディア勝負な部分もあるので、応募点数が多いほうが、よいものになる可能性はあります。詳しくは知りませんが、招致活動や長野ではこの方式だったようですし。

デザイン的に見ると、アートディレクターがコンペ段階から、全体のコンセプトにあったものに近いものを選べるというメリットはあります。ただし、それはあくまで「近い」です。エンブレムの作者とアートディレクターが別であるという事実は残ります。また、こういう一般公募のコンペに、優秀なデザイナーがどれだけ応募するかという問題も残ります。プロの優秀なデザイナーは多忙な場合が多いですので、オリンピックのエンブレムとはいえ、一般公募の形のコンペのために多くの時間を費やすのは、なかなか大変です。招致の時も学生さんの作品でしたし。

長野オリンピックはよかったのにという意見も見られますが、長野オリンピックでも、公式パンフレットでは別のマークを使っていたりします。全体の統一感という意味では問題が生じていたといえるかもしれません。このあたりの経緯はわからないので、なんともいえませんが。

’98 長野冬季オリンピック 開・閉会式プログラムデザイン

また、エンブレムのデザインと全体のアートディレクションのどちらに仕事としての利益があるかといえば後者です。エンブレムの賞金は100万円程度ですが、全体のアートディレクションはそのレベルではないでしょう。一般公募をしているので、一見、民主的でオープンに見えますが、経済的においしい部分は、内部であらかじめ決っているわけです。利権を非難するなら、どちらを非難するべきでしょう。

前記事で述べたように、亀倉雄策氏の主張するように全体のまとまりを重視すると、エンブレムのデザインを決めて、その人に全体もしくは主要な部分のアートディレクションを依頼する形になります。このためには、4の「狭い範囲の応募者によるコンペで内部で決める」をとることになります。今回、閉鎖的などと指摘はされていて、経過の情報を出さなかったことなどは確かにまずいですが、仕組み的には、経済的においしい部分も含めて、できるだけ公平に行おうという姿勢があったといえます。逆に、エンブレムで問題が生じると、アートディレクションをまかせることもできないということになるわけですが。

また、半閉鎖的といえる条件を課すことで、コンペに参加すること自体の価値を高めています。一般公募だったら参加しないようなデザイナーも、このような形であれば、高いモチベーションで参加してくれると考えられます。これだけのデザイナーをタダで働かせるわけですから、経済的にはお得なやり方という考え方もあるかもしれません。

実は1964年は、亀倉雄策氏が制作体制の枠組みを提案して、そのなかでコンペを行なって、亀倉雄策氏自身の作品に決っているので、非常に豪腕なことをやっていることになります。今、このやり方を行ったら、利権だとかいう非難はでてくることになるでしょう。佐藤卓さんがいうように、デザインって、民主的なだけではうまくいかない、むしろマイナスになるということが多いと思います。結果がよければ評価されるわけですし。

「民主主義」が「デザイン」をダメにする

亀倉雄策氏を賞賛したかと思えば、民主的に、オープンにするべきといい、一般公募するべきといって、利権を非難する。背景を考えると、非難の方向がバラバラなように思います。単純に、デザインが気に入らない、パクリ騒動のあったやつが気に入らない、利権をもっているやつらが気に入らないというような感情的なものによるのでしょうけれど、もし、ロジカルに非難するなら、方向を整えて、丁寧な言葉で語らないと、前に進む議論にはなりません。

結果的にいえば、3の「一般公募して内部で決める」が一番無難だったのかもしれません。おいしい部分は利権で決められて、しかもその部分は目立たない。一番目立つエンブレムの部分で何かがあっても、外部の責任にできる。そういう意味では、大人の選択です。でもそうはしなかった。その理由は、前記事で述べたように、亀倉雄策氏の理想を引き継いで、もっと芯の通ったもの、大きな価値を求めた。それ自体は、悪いこととは思えないのです。

ところが、それを亀倉雄策氏のように豪腕で押し切るのではなく、中途半端に民主的に行おうとした。そのうえ、参加作品などの途中経過は公開しない。そういった中途半端な態度が、良くなかったのかもしれません。むしろ1964年のときのように、20人くらいの指名コンペ(当時はデザインの委員会があって、そのメンバーが参加したのだったと思う)にしたほうが、それぞれがもっと真剣に取り組むことができたかもしれません。

コンペの問題点

今回、100分の1の確率に、多忙なデザイナーがどれだけ真剣に取り組んだでしょうか。もちろん、口では真剣といいますけど、本当の仕事でのギリギリの緊張感があったでしょうか。コンペは結局、大半の応募者をタダ働きさせる方法でもあるわけで、それはメリットでもあり、デメリットにもなります。

ものづくりというのは、作る側はもちろんのこと、発注側も真剣勝負なわけです。何度もぶつかりあって、それを越えて進めていくことも少なくありません。ところが、コンペは応募要項を作ったら、作品の質は応募者に投げてしまっています。もちろん、コンペでいい作品がでてくることも多いのは事実ですが、それは応募者が無報酬になる可能性が高いにもかかわらず、いい仕事をしてくれたおかげです。コンペの問題点は、むかしから主張していて、2002年に出した『ウェブサイト制作のワークフローと基礎技術』にも書いていたりするのですけど、クラウドソーシングなど、時代はますますコンペが増える状況になっていますね。

また本来、ロゴを作るときには、さまざまなやりとりをして、何度も作りなおすわけですが、コンペにしてしまうと一発勝負になってしまいます。問題を解決していく、普段のデザイナーの能力は活かされず、一種の博打性を帯びてきてしまうのです。そうなったときに、「いわゆる一流デザイナー」の100案と、一般応募(プロも含む)の1万案で、最高作品のどちらのレベルが高いか、これは想定不能なむずかしい問題です。

今回、コンペの結果が決定したあとに修正したことについて、プロのくせに添削するようなことをしてとか、コンペなのに修正するのはおかしいというような非難がありますが、それは的外れだと思います。通常のシンボルマークの制作工程では、一度案を出してから、何度も修正することは当たり前のことです。コンペは、優秀な作品を選ぶ競技ではなく、目的に適した制作物を作るための手段なのですから。

ぼくの考えでいえば、少人数で構わないから、どういうデザインであるべきなのかを、きちんと議論して進めて欲しかった。選考が公平であるかなんてことはどうでもよくて、みんなで良い物を作ることが重要なので、その議論こそが、未来への遺産になるだろうと思うからです。参加者の範囲を狭めるのだったら、競技としてではなく、共同制作として行なってほしかったという気はするのですね。

大きな仕事でも、小さな仕事でも、どういう体制で制作するかというのは、いつも大問題です。それが仕上がりに与える影響はとても大きいのです。できるだけ、うまくいく確率が高いカタチを選ぼうとする。でも、それは確率でしかなく、やってみないとわからない。最後には、「えいっ」と選ぶしかない。何かを作るときは、みんなそういうものです。

今回のオリンピックのエンブレムに関して、上記の3を選ぶか、4を選ぶか、そのどちらもあり得ることだったと思います。そして、今回は4を選んだ。それ自体は確率的にそれほど低い選択をしているとは思えないです。うまくいけば、すごくうまくいった可能性はある。でも結果的には、はずしてしまった。そういうこともあるんです。ただ、そのなかには、コンペというもの自体の功罪もあるし、応募者のモチベーションや応募作品の質に問題があったのか、選び方に問題があったのかは、応募作品が公開されないと検証はできません。64年大会も公開されているわけですし、これは公開するべきでしょうね。

デザインって、スポーツと同じように、負けるときは負けるのです。いいものできないときは、できない。だからこそ、できるだけいいものができる確率をたかめていく必要があります。そのためには、デザインそのものを高めるとともに、制作や合意形成のプロセスの設計というものが重要になってきます。今回のことを一つの教訓として、そのあたりのことをきちんと考える必要があるように思います。

ちょっと補足と思ったら、ずいぶん長くなってしまいました。

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